第62話 半歩
3日後、イルザ・アイゼンは吊っていた布を外して砂に立った。
右肩は上がっていた。だが、槍の構えが半寸低い。帝国の医者は骨をつないだだけで、腱までは戻していない。
「治しておけばよかったか?」
「言うな」
イルザは石突きを砂に立てた。
「お前に治された腕で、お前を突くのは筋が通らん」
最初の10を、俺は数えていた。
突きが10。全部、俺の肩の高さに来た。顔でも腹でもない。肩だ。当たっても死なない。そういう場所ばかり狙ってくる相手というのは、初めてだった。
11本目で、俺は穂先を掴んだ。
途端に、柄が生きた。イルザが柄を回している。回った穂先が掌の中で滑って、俺の親指の付け根を裂いた。血が出た。
(——ほう)
人間に傷をつけられたのは、ダンジョンを出てから2度目だ。
イルザの喉が鳴った。3つ。上級の雷魔法が、槍ではなく彼女自身に落ちた。
自分の背骨に通したのだ。
速さが変わった。
人間の筋肉は、脳が出す信号の速さでしか動かない。その信号を雷で押している。押せば速くなるが、かわりに筋が焼ける。
12本目が、俺の左の脇腹に入った。
身体が半歩後ろへ動いて、入ったと分かった。自分で動かした半歩ではない。
俺は、押し返されていた。
(……こいつ)
前世で、俺を半歩下げた人間はいない。人間ではない連中でも、片手で数えるほどだ。
俺は掌を開いた。闇魔法は使わなかった。使えば終わる。使って終わらせるのは、この女が今、自分の背骨を焼いてまで作った半歩に対して、釣り合わない。
魔力を、掌の面に薄く広げた。
◇
——わたしは、修練場で剣を教えている者です。
ゼノ様が掌で押す形を、わたしは3度見ています。近衛の副長のとき。教団のとき。そして今日です。
今日だけ、押し方が違いました。
前の2度は、相手を壁まで飛ばしました。今日は、帝国の代表の身体が浮きません。足の裏が砂についたまま、後ろへ滑っていきました。
《《削っておられる》》のです。
飛ばせば1度で終わります。滑らせれば、相手は何度でも立てます。その形にして押していらっしゃる。
わたしは、あの方がそういう押し方をご存じだったことを、今日まで知りませんでした。
イルザは3度立った。
1度目は槍を使った。2度目は槍を捨てた。3度目は、膝を立てられず、四つん這いのまま頭だけを上げた。
背中から煙が出ている。服の下で、筋が焼けている匂いがした。焦げた革に似た匂いだ。
「まだやるのか?」
「7度目にすると言った」
「今日は3度目だ」
「6度負けた男に勝てる者と、4度やる」
イルザは口の端を拭った。砂と血がついた。
「お前は勝つ。あいつに。だからわたしは、お前に4度負ける」
俺は歩いた。
間合いに入った。イルザが左の拳を出した。速い。だが、雷はもう入っていない。背骨が焼けきって、もう雷を通せない。
拳を、掌で受けた。
そのまま彼女の手首を掴んで、引いた。そのときに、俺は自分がやろうとしていることに気づいた。
投げようとしていた。
投げれば、肩から落ちる。骨が付いたばかりの右肩だ。
俺は投げなかった。手首を掴んだまま、腕を横へ回して、背中側から押し出した。先は結界の壁で、イルザの背中が触れて、音が鳴った。
場外だ。
審判が旗を上げた。客席が鳴るまでに、間が1つ空いた。
イルザは壁に背をつけたまま座り込んで、笑っていた。
「お前、投げなかったな」
「投げれば肩が外れる」
「外れて構わん。次があるからな」
彼女は、砂の上に落ちた自分の槍を見ていた。
「お前、やはり数えていない口ではないな」
「何の話だ?」
「数えるのをやめた口だ。数えていた時期がある者は、相手の落ちる場所を見る癖が抜けん」
俺は答えなかった。
この女は正しかった。俺は前世で、落ちる場所を見て、そこに次の1発を置いていた。
控えの間で、フィーネが布を出してきた。
親指の付け根が裂けている。俺が自分で塞げば済む傷だ。それを言う前に、彼女は俺の手首を取って、布を巻き始めていた。
巻き方が下手だった。指の間を2度くぐらせて、2度とも通す場所を間違えている。
「どこで習った、それ」
「習っておりません」
フィーネは、巻き直した。
「馬の脚には巻いたことがありますわ」
「俺は馬か」
「今のところ、馬の方が上手に立っています」
3周目で、やっと形になった。彼女は結び目を親指で押さえて、そこで手を止めた。親指は、動かさなかった。
「……押されましたわね。1歩」
「半歩だ」
「あなたが力で押し負けるところを、わたしは初めて見ました」
フィーネが結び目から指を離すのに、少し時間が掛かった。
「もう一度見ることになりますの?」
「知らねえ。だが、あの勇者は半歩じゃ済まねえだろうな」




