第60話 王家の傷
王宮の西棟は、半年前と同じ匂いがした。
床に蝋を引いたばかりの匂いだ。廊下の火は、俺が通るあいだだけ細くなって、通り過ぎると戻る。衛兵が2人、槍を持ち替えただけで、止めはしなかった。半年前は止められた。
エリシアの執務室は、宰相府の隣に移っていた。
扉を開けると、机の上が紙で埋まっていた。左の山が高い。右の山は低いが、そちらの紙は端が揃っている。読んだものと、読んでいないものだ。
「ゼノ様」
エリシアは立ち上がり、椅子の背に手を掛けたまま動かなかった。
「お顔の色が」
「それは、あんたの方だろ」
「わたくしは、ここに座っているだけでございますので」
目の下に、隈があった。半年前のものより濃い。髪はきちんと結ってある。結い上げるのに手間を掛ける余裕はあって、寝る余裕は無いということだ。
「昨日は、砂の上で3歩、下がられたと伺いました」
「下がった」
「見に参りませんでした」
エリシアは、そこで椅子から手を離した。
「見に参れませんでした、ではございません。参りませんでした。……昼に、聖国の使節と会っておりましたので」
紙は、机の右の山の一番上にあった。
3枚組。1枚目が挨拶、2枚目が本文、3枚目が署名だ。人間の国というのは、用件を言うのに3枚使う。
読み上げたのはフィーネだった。
「——降臨祭を分かち合う五大国の場において、闇の術を用いる者を代表として立てることは、祭の由来に悖る。ヴァリス王国は速やかに代表を改め、当該人物の出場を取り下げられたい。ソルディア聖国、審問庁」
「明日の分は、もう1枚参ります」
エリシアは、左の高い山を指で示した。
「昨日の試合の前に1枚、後に1枚。使節は6人来ておりまして、そのうち4人が書ける者です」
「何が悖るんだ。闇は使うなという決まりがあるのか?」
「対抗戦の規則にはございません」
フィーネが紙を置いた。
「規則に無いから、由来を持ち出しているのですわ。規則は五大国で決めますが、由来は聖国が持っています」
「持ってるってのは、どういう意味だ?」
「降臨祭の祝詞を、2000年、あの国が写してきたということです」
◆
その日の午後、貴族議会の広間で、俺は5人に呼ばれた。
議会そのものではない。議会に出る者のうち、東部に領を持つ5家が、集まって待っていた。上座に誰も座らず、全員が立っている。その並び方だけで、これが正式な場ではないと分かるようにしてある。
「殿下。代表の交代を、我々は求めております」
一番年嵩の男が言った。60過ぎだ。手が震えている。震えを止めるために、握った杖を身体の前で押さえている。
「東部は、聖国と国境を接しております。麦の3割を、あの国の街道で売っております」
エリシアは、俺の斜め前に立っていた。
「ヴィント殿が、大学におられると聞きました。あの方なら、名にも家にも傷がありません」
「ヴィント様は、学内選抜で敗れております」
「敗れた相手が、我らの傷の元ですので」
広間が静かになった。
俺は口を開きかけて、やめた。この場で俺が何を言っても、東部の麦は動かない。
エリシアが、半歩前に出た。
「取り下げは、いたしません」
「殿下」
「わたくしはこの半年、あの方を『王家が雇った者』として扱ってまいりました。扱えば、王家は何も失いません。失わずに済む形を、わたくしが選んでおりました」
紙を持つ手が、震えていなかった。震えていないことに、俺の方が気づいた。
「本日より、改めます。ヴァリス王国の代表は、ゼノでございます。名の後ろに家名はございませんが、その身は王家が保証いたします」
「……保証、とは」
「傷がつきましたら、王家の傷といたします」
年嵩の男が、杖を持ち替えた。
◇
——わたくしは、あの5家がどれだけ怒ったかを、あとから知りました。
広間を出たあと、ゼノ様は廊下で足をお止めになりました。わたくしの2歩前です。
「あんた、何を賭けた」
「賭けてはおりません」
「東部の麦の3割だ」
「3割が止まりますと、王都の冬の値が2割上がります。……南街区の者から先に、冬を——」
わたくしは、そこまで申し上げて、口を閉じました。
あの方が、南街区の子らのことを考えている顔をなさったからです。あの方の顔で、わたくしが読めるところはそこだけでございます。読めたのに、わたくしは、それを黙っておりました。
黙るのではなく、「代わりの街道を、2つ当たっております」と申し上げるべきでした。そうすれば、あの方は安心なさいます。
安心なさると、わたくしを見なくなります。
夜、俺は宿の卓で、聖国の紙を1枚借りて眺めていた。
署名の下に、印が捺してある。円の中に線が3本。イズマの手の甲に焼いてあるのと同じ形だ。印の縁が、紙の裏まで凹んでいる。押した者が、体重を掛けている。
「フィーネ。あの国は、何人いる」
「人口ですの? 300万ほどかと」
「そのうち、俺を討てと言い出す奴は何人だ?」
フィーネは炭を置いた。
「昨日までは、6人でしたわ」
窓の下を、荷車が1台通った。車輪が霜を割る音がした。
「今日からは、数えられません」
◆
その夜、エリシアの執務室には灯が残っていた。
机の右の山から、1枚だけ抜かれている。抜いたものは、封を切られていない。差出は審問庁、宛先は「ヴァリス王国第一継承者」。他の3枚とは別の筆跡で、封蝋の色も違う。
エリシアは、それを読まなかった。
《《読まずに》》、机の一番下の引き出しへ入れて、鍵を掛けた。鍵は、父王の居室の鍵と同じ輪に通してある。




