第59話 乾いた砂
客席が埋まると、闘技場は暖かくなった。
2万人ぶんの息と体温だ。朝は霜が降りていた石の段が、昼前には乾いている。砂の匂いに、汗と、焼いた肉を売る車の脂の匂いが混ざった。
結界が起きるとき、音はしない。5人の術士が切れ目に立ち、同時に手を下ろす。空気が一度だけ厚くなって、それから元に戻る。戻ったように見えて、客席との間に壁が1枚ある。
ヴァリスの切れ目に立っているのは、トバイアスだ。羊皮紙の筒はもう持っていない。
「詠唱を、しますので」
前の晩、あの3年生はそう言った。
「4300回のうち、声を出したのは4300回です。手が覚えていなくても、口は覚えています」
リュカ・カルナは、砂の中央に立って喋っていた。
「きみさ、朝は何を食べるの。ぼくはね、公国だと粥なんだけど、こっちのパンは硬いよね。ポーラって子が言ってたんだって? あ、これは聞いた話」
「詠唱をしろ」
「してるよ」
俺は足を止めた。
この男は、闘技場に入ってから一度も口を閉じていない。喋りながら息を継ぎ、継いだところにまた言葉を置く。その中に、混ざっている。子音の並びが、途中で3回、人間界の詠唱の形になった。
砂の上に、水が薄く広がった。
厚みは指1本もない。円形に広がって、俺の足元まで来た。日が高い。水は光を返す。返した光が、砂の照り返しと重なって、目の高さで白くなった。
白の中から、リュカが3人出てきた。
1人目を殴った。手応えはあった。砂を蹴る音も、骨の音もした。殴られた男は、口から血を吐いて、笑いながら後ろへ下がった。
2人目が横から来た。俺は避けずに肘を入れた。これも手応えがあった。
3人目が、俺の胸を押した。
押された、と思った。2歩下がって、俺は止まった。足の裏に、砂が無い。石だ。振り返ると、結界の壁が背中の3歩後ろにあった。
場外まで、3歩だった。
(——掴まされたな)
俺は、魔力の濃い方を本体だと決めていた。前世からそうしてきた。像には魔力が要る。本体より濃い像は作れない。作れないはずだった。
この男は、自分の魔力を割っている。像の数に合わせて、均等に。本体も像も、同じ濃さにしてある。だから濃い方を追うと、必ず外れる。
砂の上の水が、また広がった。
今度は6人出てきた。
◇
——わたしは、客席の1段目で、手すりを握っておりました。
砂の上で、あの方が下がりました。3歩です。
わたしの後ろの列で、椅子の鳴る音がしました。振り返りますと、ソルディアの使節が席を立ったところでした。1人ではありません。6人が同時に立って、通路へ出て、そこで並んで砂の方を向きました。座らずに、立ったまま。
隣国の使節が何をしているのか、すぐには分かりませんでした。そのうちの1人が、胸の前で手の甲を上に向けて、ようやく分かりました。
聖印の焼き跡を、砂に向けておりました。
俺は目を閉じた。
見るのをやめると、他のものが来る。客席の音。風。砂の上を走る足の音が6つ。6つとも、砂を同じ深さで踏んでいる。
同じ深さのわけがない。
あの男の像は、薄い水膜の上にしか立たない。水を踏めば、音が濡れる。
6つのうち、5つが濡れていた。
1つだけ、《《乾いた砂》》を踏んでいる音がした。水膜の外を走っている。像を全部水の上に置いて、自分だけが外を走る。よく出来ている。
俺は、そちらへ歩いた。
「あれ」
声が、乾いた方から出た。
「気づくのが早いよ。まだ3手あったのに」
俺は掌を返した。
闇幕。
1枚。2枚。3枚。4枚。
砂の上の光が消えた。闘技場の底に敷いた砂も、石も、そこに立っている人間も、そのまま残っている。なのに、見えるものが何も無い。
水膜は光を返して像を作る。返す光が無ければ、像は立たない。
闇の中で、乾いた砂を踏む音が1つだけ動いて、止まった。逃げ場所を探して、無いことに気づいた者の止まり方だった。
俺はその音の前まで歩いて、首の後ろを掴んだ。
「降参する?」
「訊いてんのか、それ」
「うん。しないと折られるから」
「降参だ、と言え」
「降参します」
闇を消した。
客席は、静かだった。
2万人が静かになるというのは、音が無くなることではない。息を吸う音が2万ぶん重なって、低い1つの音になる。
その音が、5つ数えるあいだ続いた。
それから、20段の上の方から声が来た。何を言っているのかは聞き取れないまま、声は下の段へ降りてきて、俺の頭の上を通り過ぎた。
砂の上に、リュカが座っていた。首の後ろを自分で擦っている。
「きみ、闇を使うんだね」
「使った」
「使わない方がよかったんじゃない?」
リュカは、客席の上の方を見上げていた。俺も見た。
さっきまで座っていた場所で、6人が立っていた。聖印の焼き跡が並んで、こちらを向いている。
控えの間へ戻ると、フィーネが扉の内側に立っていた。
「3歩でしたわ」
「あぁ」
「場外まで、3歩でした」
「聞こえてる」
フィーネは扉から動かなかった。腕を組んで、組んだ指が二の腕に食い込んでいる。
「あなた、押されましたわね」
俺は椅子に座って、掌を見た。4枚組んだ。前世なら、あの水膜は1枚で蒸発している。
ここ半年、器は少しも広がっていない。増えたのは使い方だけだ。
「フィーネ」
「ええ」
「あの公子、次は誰とやる」
「明後日、ドラーズのアイゼンと」
「見に行く」
俺は立ち上がって、自分がまだ砂を踏んだままの靴で床を汚していることに気づいた。フィーネは、それを見ていた。
何も言ってこなかった。




