第58話 朝に似ている
闘技場は、石を擂鉢に彫ったものだった。
王都の東の外れにある。客席が20段、下へ向かって狭まり、底が砂地になっている。2万人が座れるらしい。今日は誰も座っていないので、風が吹くと砂が客席の1段目まで上がってきた。
砂に足を下ろすと、下から冷たいものが来た。石だ。砂は薄く敷いてあるだけで、その下は敷石で、敷石には線が彫ってある。
俺はしゃがんで、砂を手で払った。
線は生きていた。2000年前のものではない。もっと後、この闘技場が建ったときに引き直されている。引いた者は、意味が分かっていた。円が3重、その外側に切れ目が5つ。切れ目に術士を立てて、5人で1つの結界を起こす仕組みだ。
「1人じゃ起こせねえのか?」
「起こせません」
後ろで、トバイアスが筒を抱えたまま答えた。
「5人です。国ごとに1人ずつ出します。誰か1人でも手を止めると、結界は落ちます。落ちたら試合は止まりまして、それから——」
「落ちたことはあるのか?」
「4年前に一度。ドラーズの術士が、自国の代表が押されているときに手を離しました。それ以来、術士は本国と別の——」
トバイアスは、そこで口を閉じた。砂の向こうから人が来ていた。
5人が、底の中央に集められた。
組み合わせの籤を引くためだ。総当たりなので順番が決まるだけだが、順番で消耗が変わる。フィーネは客席の1段目から動かなかった。
最初に俺の隣へ来たのは、女だった。
背が高い。俺より指2本ぶん低いだけだ。黒い髪を耳の上まで刈り上げて、後ろだけ短く残している。首が太く、右の肩と背中の右半分だけが厚い。左右で服の張り方が違う。槍だ。それも10年、同じ側で突いてきた身体だった。
「イルザ・アイゼンだ。ドラーズ」
差し出された手を握った。掌の付け根が硬い。胼胝が、指の方ではなく手首の側についている。柄を引く握り方をする者の手だった。
「ゼノ」
「家名は」
「無え」
「ふん」
イルザは手を離し、俺の首から下を一度だけ見た。
「お前、何人殺した」
「数えてねえ」
「わたしは83だ」
彼女は客席の方を見た。
「数えないやつは、2種類いる。数えられないほど殺したか、1人も殺していないかだ」
次に来たのは、笑っている男だった。
淡い金の巻き毛を肩のところで切り揃えている。細い。腕に筋肉がほとんど付いていない。歩いてくるのに、砂の音がしなかった。爪先から下ろす歩き方だ。
「リュカ・カルナ。公国から来たよ。きみが、ヴァリスの?」
「あぁ」
「学生なんだってね。ぼくもだよ。まだ2年目」
手を出してきたので握った。柔らかい。指だけが長く、関節が細い。この手で槍も剣も持てない。その必要が無いということだ。
「昨日ね、きみの試合を見たんだ」
「試合はまだ始まってねえ」
「あれ、そうだっけ」
リュカは首を傾げた。傾げただけで、訂正しなかった。
聖国の男は、手を出さなかった。
灰色の短髪。首が太い。背は高くないが、立ち方が石だった。組み合わせの籤を引くまで、まったく動かない。それが常態で、動く方が例外という立ち方だ。
手の甲に、焼き跡があった。円の中に線が3本。聖印だ。押したのではなく、焼いている。
「イズマ・セルヴァンであります」
声が平坦で、大きい。祈りを唱える者の出し方だった。
「握手は?」
「わたくしどもは、聖印を持たぬ手を取りません」
「そうか」
「無礼ではありません。決まりであります」
イズマは、俺の顔を見ていなかった。俺の左の肩の上のあたりを見ている。そこに何かがあるかのように。
最後の1人は、遅れて来た。
姿が見えた瞬間に分かった。
光だ。俺が指先に灯すものと同じ系統で、魔力量が桁違いに多い。人間の器にそれだけ入るわけがない。入っているのではなく、外から掛かっている。天使の加護だ。前世でこれを浴びた相手と、俺は何度もやり合っている。
背の高い男だった。27か8。金というより亜麻に近い髪を短く切って、後ろだけ首にかかっている。肩は広いが、厚みは俺と変わらない。動き方が妙だった。歩幅が一定で、砂の柔らかいところで速さを変えない。疲れることを前提にしない歩き方だ。
「遅れました」
男は、全員に向かって頭を下げた。深く。
「メルセアのジークハルトです。馬が門で止められまして——わたしの不手際です」
イルザが鼻を鳴らした。リュカが笑った。イズマは動かなかった。
ジークハルトは、俺の前で止まった。
手を出しかけて、その手が途中で止まった。
彼は、その手を自分で見た。それから俺を見た。目の焦点が、俺の顔ではなく、その少し内側に合っている。俺が人間の身体の中を見るときと同じ合わせ方だった。
「……失礼」
手は、最後まで出てこなかった。
「あなたから、2つ感じます」
「言ってみろ」
「ひとつは、わたしの膝が勝手に下がるようなものです。もうひとつは——」
ジークハルトは、そこで言葉を探した。はっきり見える探し方だった。
「もうひとつは、朝に似ています」
◇
——わたしは客席の1段目で、砂の照り返しを浴びながら5人を見ておりました。
自分で選んで引いたのは4人だけです。勇者は、他の4人が引き終わるまで手を出しませんでした。残った1本を取るためです。
あの方は、その様子を見ていました。見ながら、右手の指を1本ずつ握っては開いていました。あの癖は、王都で宰相府の札を待っていたときにも出ていました。退屈しているときの手ではありません。目の前のものの重さを、《《手で測ろうとしている》》ときの手です。
わたしはあの方の勝ち負けを、これまで一度も疑ったことがありません。今日、初めて紙に書きました。5人の名を書いて、勝つ順に並べ替えました。思っていたより時間がかかりました。
籤の結果、初戦の相手はリュカ・カルナに決まった。
「よろしくね」
リュカは、俺の札を覗き込んで言った。
「ぼく、弱いよ」
砂を蹴って歩き出した背中を見ながら、俺は、この男が3度、嘘を吐いたことを数えていた。3度目が、今のだ。
嘘を吐いている人間は、吐く前に息を止める。この男は止めなかった。




