第57話 噛み砕くと増える
王都へは、8日かけて行くことになった。
馬を潰さないためではない。フィーネが宿場を6つ指定して、そこで人と会う段取りを組んだからだ。
出立の朝、門に4人が立っていた。
リィナは荷を2つに分けて、重い方を自分の馬に括っていた。俺が手を伸ばす前に結び終えている。ポーラは布の包みを押しつけてきた。まだ温かい。パンと、塩漬けの肉と、油紙にくるんだ何かが3つ入っていた。
「王都のパンは硬いから」
「食ったことがあるのか?」
「無い。けど、そういうことになってる」
トバイアスは、羊皮紙を筒に入れて抱えていた。闘技場の地面には古い結界の術式が埋まっていて、試合のあいだ、それを起こして客席と場内を隔てる。維持するのは各国が出した術士だ。ヴァリスは学生から1人出すことになり、その枠にこの3年生の名が入った。
「4000回描いたんです。そのあとで、まだ手が覚えていないことに気づきまして、それで——」
「今は何回だ」
「4300です」
ミルカは見送りに出てこなかった。書庫にいた。前の晩に、俺が持って出るものを紙に書いて渡してきて、その最後の1行が「戻る日を書いてください」だった。俺は書かなかった。書ける日を知らないからだ。
道中、リィナはよく喋った。
中身は、宿場と、水の場所と、馬の脚の話だ。それでも、大学にいる間の3倍は口を開いていた。3日目の昼、街道の脇で馬を休ませているとき、彼女は木剣を鞍から外して、素振りを50回した。汗が首を伝って、襟の中へ落ちていた。
「殿下がご出立のとき、わたしは王宮の門にいました」
振りながら言った。
「あのときは、見送る側です」
「今は、行く側だな」
「はい」
50回目で止めて、リィナは木剣を鞍に戻し、俺の方を見ずに言った。
「……19日のうち、11日目までは、毎朝門に出ていました。12日目からは、夕だけにしました」
フィーネが馬の腹帯を締め直す手を止めて、こちらを見た。口は開かなかった。
◆
王都は、前に出たときより寒かった。
門の内側の市に、炭を売る車が出ている。焼いた小麦の匂いに、煙の匂いが混じっていた。石畳が朝の霜で白く、荷車の轍だけが黒い線になって残っている。
門を抜けたところで、上から声が降ってきた。
「ゼノ様」
屋根の上に、シャルがいた。
降りてくるのに、階段を使わなかった。庇から樽、樽から地面へ、音を3つしか立てずに降りた。そのまま俺の外套の裾を一度掴んで、すぐ離した。
「早いです」
「8日かけた」
「来るのが早いです。対抗戦は、あと1月半あります」
「フィーネが札を集める」
シャルは頷いて、それからリィナを見た。リィナも見返した。2人とも何も言わなかったが、シャルの方が先に俺の斜め後ろへ回り、リィナが真後ろに残った。歩き出したときの並びが、それで決まった。
「帳面は、月の頭に出させています。3度出ました」
シャルは歩きながら言った。
「1度目は、数が合っていました。2度目も。3度目が、合いすぎています」
「合いすぎるってのは、どういう状態だ?」
「ご自分で、見ていただいた方が早いです」
南街区の路地は、明るくなっていた。
前に来たときは、3本目の路地に入ったところで昼の光が届かなくなった。今日は突き当たりまで見えた。両側の庇が切り落としてある。切り口が新しい。誰かが、この路地を明るくするために、自分の家の庇を落としたのだ。
扉の脇の石も変わっていた。鎖3本と円の紋章の上に、板が打ちつけてある。板には字が彫ってあった。
——争いごと、聞きます。銭は取りません。
俺は板を指で叩いた。乾いた音がした。彫りは、あの石より深い。
「……フィーネ」
「ええ」
「秘密結社ってのは、看板を増やすものなのか?」
「わたしに訊かれましても」
中から、老人が出てきた。
ドルガは、以前より背が伸びて見えた。腰が伸びている。俺の前まで来て、膝をつこうとして、途中で止めて、頭を下げるだけにした。止めたところが、一番不自然だった。
「お待ち申し上げておりました」
「跪かねえのか?」
「主より、自分で考えて動けと賜りました。考えました結果、路上で膝をつきますと、人が集まってしまいますので」
◆
広間に、紙が貼ってあった。
18枚ある。1枚に1条ずつ、大きな字で書いてある。第一条、刻印を頼るべからず。第二条、借りを作るべからず。第三条、作りたる借りは返すべし。第四条、返せぬ額を借りるべからず。
俺が言ったのは3つだ。
「これは」
「主のお言葉を、若い者にも分かるよう、噛み砕きましてございます」
「18になってるぞ」
「噛み砕きますと、《《増える》》のでございます」
第十一条まで読んで、次の条で目が止まった。第十二条に「主の御名を、みだりに口にすべからず。ただし助けを求める者の前では、この限りにあらず」と書いてあった。
「おい。この但し書きは、誰が考えた」
「わたくしでございます」
ドルガは、貼り紙を見上げていた。
「先月、鍛冶屋の倅が金貸しに連れて行かれました。若い者が3人、止めに入りましてございます。止めるにあたって、名乗らねば話になりませんので」
「止めたのか」
「はい。金は、わたくしどもが立て替えました」
俺は貼り紙から目を離して、広間を見た。卓が3つ減っている。勘定盤が無い。代わりに、奥の壁際に木箱が積んであって、その上に椀が伏せて並べてあった。数は9つより多い。
「子供が増えてるな」
「6人、増えましてございます」
◇
——わたしは、板の彫りを見ておりました。
「争いごと、聞きます」と彫った字は、木目を2度またいで、そこだけ深くなっています。彫った者は、力の入れどころを知りません。
あの方が18枚を読んでいるあいだ、教主は一度も、褒められるのを待つ顔をしませんでした。何を言われても構わないという顔でもありません。あれは、自分で決めたことの結果を、これから聞く者の顔です。
わたしは、あの1行を書いたときのことを思い出しました。書き終えたあと、わたしはしばらくあの紙を見ていました。何が起きるのかを、少しも予想していませんでした。
その晩、宿の窓から南街区の方を見た。
路地に灯りが並んでいた。前は、日が落ちれば真っ暗になる区画だ。灯りを数えかけて、俺はやめた。
シャルが、窓の外の庇に座っていた。中に入れと言っても入らない。
「教団の者が、街で呼ばれています」
「なんて呼ばれてる」
「裁き手、と」
シャルは膝を抱えた。
「誰が言い出したのかは、分かりません。3月前は、子を攫う連中と呼ばれていました」




