第56話 自分で考えて動け
俺は、自分の目の届く範囲だけを勘定に入れて生きてきた。
その外に、俺の名前で動く人間が60人いる。勘定が、合わなくなった。
帰りは8日かかった。
行きは7日で走らせたが、帰りは3日目にフィーネの馬が右の前脚をかばい始めた。蹄の内側に小石が食い込んでいて、抜いたあとも歩き方が戻らない。街道の宿に1晩余分に置いて、そこから先は速さを落とした。フィーネは馬代の帳面を出して、余分の1晩を炭で書き足した。線を引くとき、定規を当てる。
4日目の夜は雨だった。
2階は藁の匂いがこもっていて、下の厩から湿った革と馬の匂いが上がってくる。窓の建て付けが悪く、閉めても隙間から風が入った。フィーネは卓に紙を広げて、炭の先を小刀で削っていた。粉を指で払う手つきだけは、いつも丁寧だ。
俺は寝床に背を預けて、梁を見ていた。
広間に並んだ60人の並び方が、頭から抜けなかった。位の高い者を前に置く隊列だ。前世で俺の前に並んだ連中も、同じ並び方をした。俺が口を開くまで、誰ひとり動かない。あいつらにとっては、それが正しかった。
18年、あの老人は日に2度、俺の名を唱えた。ほかには何もしていない。唱えろというのが、最後に届いた命令だったからだ。
「フィーネ」
「ええ」
「紙を1枚寄越せ。ドルガに出す」
フィーネは炭を置いて、束の下から白い方を1枚抜いた。宿の紙より厚い。王都から持ってきたやつだ。
「なんと書きます?」
「俺がいなくても、自分で考えて動け」
炭が、紙に触れる前で止まった。フィーネは一度こちらを見て、それから書いた。炭の速さは変わらなかったが、書き終えてから紙を持ち上げて、しばらく目を離さなかった。
「……これだけですの?」
「あぁ」
「考えて動け、というのは命令ですわ」
フィーネは紙を卓に戻した。
「命令された通りに考える者は、考えていません。それに、あなたが二度目を寄越さなければ、あの者たちはこの1行を18年唱えますわ。今度は毎日、自分で考えたつもりで——」
俺は、天井の梁を見たままだった。
「……そりゃ、困るな」
「困るのは、あなたではありませんわね」
フィーネは紙を四つに折って、帳面の間に挟んだ。雨の音が強くなって、厩で馬が1頭、板を蹴った。
俺は命令を出すのが上手い。出さずに済ませるやり方を、俺は一度も使ったことがない。
ミレイアに着いたのは8日目の夕方で、塔の光が白から青へ変わるところだった。
門の脇に、膝の高さの石が2つ据えてある。荷を降ろすための石だ。その片方に、リィナが座っていた。木剣を1本、膝の上に横にして置いている。俺たちを見つけて立ち上がるまでに、少し間があった。座り慣れた者の立ち方だった。
爪先の革が、両方とも新しく削れていた。
「遅いです」
「馬が石を噛んだ」
「19日です。7日で行くと聞きました」
「7日で行った。帰りが8日だ」
リィナは黙って、俺の背の荷に手を伸ばした。掴んで、引いた。渡す前に取る。この娘は昔からそうだ。
「講義の記録は、ミルカ様が取っています。修練場は、わたしが見ています。ポーラは剣を続けています。手首はまだ返りません。……殿下は、お戻りになりません」
「王都の宰相府が回るまでだ」
「存じています」
「あんた、王宮の門でも石に座ってたな。雨の日だ」
「座っていません」
リィナは荷を肩に掛け直した。
「……座ったのは、最後の1刻だけです」
俺は、その背中に追いついた。
「次は、あんたが残らなくていい。エリシアの側が空く」
「殿下は、王都です」
リィナは足を止めないまま、先に門をくぐっていった。俺は自分が何を間違えたのかを考えながら、その後ろを歩いた。
門をくぐる手前で、リィナは一度だけ振り返った。
「次は、わたしも行きます」
返事は待たなかった。
◆
食堂は、豆と塩の匂いがしていた。
入ったところで、卓の間の通り道が開いた。1年生が3人、器を持ったまま端へ寄って、こちらを見ないようにしている。フィーネが隣にいるからだろうと思った。あの家の名は、先月から学内でも通っている。
「違うよ」
杓を持ったまま、ポーラが厨房の窓から身を乗り出した。
「飛んだからでしょ」
「……飛んだ?」
「7日で王都まで行って帰ってきたって。馬じゃ届かないから、飛んだんだって話になってる。1日目は早馬を8頭潰したことになってて、2日目に飛ぶことになって、3日目には屋根より上を飛んでた」
「飛べば早えな。今度から、そうするか」
「魔王は、そういうところが魔王なんだよ」
俺の向かいで、トバイアスが指を折り始めた。
「街道は片道180里です。宿場が9つで、替え馬を全部使っても1日24里が上限になります。夜通し走らせても、7日では——」
そこで指が止まった。
「……届きません。届かないということは」
トバイアスは、折った指をそのままにして俺を見た。隣で、ミルカが羽根ペンの先を紙に当てたまま訊いた。
「何刻で飛ばれましたか」
「飛んでねえ」
「では、何で行かれましたか」
「馬だ」
「7日で180里は、馬では届きません」
一周して戻ってきた。トバイアスが口を開けて、開けたまま俺とミルカを見比べている。端の卓で、1年生のひとりが器を取り落とした。床で跳ねて、豆が三方へ転がった。
ポーラが厨房から出てきて、その子の器を拾い、新しいのを注いでやった。その足でこっちへ来て、俺の前にも1つ置いた。
鍋の上澄みではなく、底の方だった。豆が沈んでいる方を掬って寄越したのだ。
「おかわりは?」
「……もらう」
◆
翌朝、講堂の柱に紙が貼ってあった。
対抗戦の日取りと、五大国の代表の欄が並んでいる。冬まで、あと2月だ。
ヴァリス王国の欄に、俺の名前が入っていた。その隣の家名の欄には、横線が1本引いてある。書いたのは学内の書記だろうが、引き方まで選抜の獣皮と同じだった。
メルセア王国の欄には、ジークハルトの名があった。家名は、ユーリカと同じだ。
ドラーズ帝国とカルナ公国の欄にも名が入っていた。どちらも聞いたことのない名だった。
「見てたんじゃない。通りかかっただけ」
訊いていない。ユーリカは紙の下の端が折れているのを、指で押さえて伸ばした。手を引っ込めるのが遅れた。
選抜の獣皮で、この娘は3行目に名前を書いた。家名の欄は、俺と同じで横線だった。
「ソルディアだけ、名前が無い」
俺は紙を見た。ソルディア聖国の欄は、《《白いまま》》だった。下に小さく但し書きがある。代表の名は、当日まで公にしない。
「毎年そうなの。去年も、その前も。……兄さんが言ってた」
「そいつらは、何を隠す?」
「知らない」
ユーリカは紙から目を離さなかった。
「訊いたら、兄さんは答えなかった」




