第55話 入れ直す
入れ直すと言ったが、その前に見ておくものがあった。
奥の部屋だ。11人が出てきた方から、さらに1つ奥に扉がある。ドルガが、そこの前でだけ立ち止まった。立ち止まって、鍵を出すのに手間取った。
「ここは」
「……お見せするようなものでは」
俺は扉を開けた。
子供が9人いた。
一番小さいのが4つか5つ。一番大きいのが10ほど。床に藁を敷いて、その上に古い外套を並べて寝床にしてある。壁際に木箱が積んであって、上の1つが開いていた。中に紙が詰まっている。
俺はその紙を1枚取った。
字が下手だった。線が震えていて、行が右下がりに落ちている。書き慣れていない者の字だ。
——うちの子を、ありがとうございました。
もう1枚。
——冬を越せました。じきに引き取りに参ります。
もう1枚。
——銭は、まだ返せません。子だけ、お願いします。
木箱は3つある。全部、同じ紙が詰まっているのだろう。
「南街区では、悪魔を崇める連中が、子供をさらうという話になっている」
ドルガは、何も言わなかった。
「そう言われているのを、知っていて放っているな」
「はい。その方が、来る者が減りますので」
子供の1人が、俺の外套の裾を掴んだ。5つくらいの女児だ。掴んでから、こちらを見上げて、それから慌てて手を離した。手の甲に、霜焼けの痕が2つあった。去年のものだ。
部屋を出たところで、俺の足が止まった。
◆
翌日、60人が広間に並んだ。
地方の2拠点から来た者は、夜通し歩いてきた顔をしていた。並び方はきれいだった。所作だけは教え込まれている。
俺は、一番前に出てきたドルガの前腕を掴んだ。
古い刻印は、輪郭が滲んでいた。入れた者は、線を1本で引いている。だが18年ぶん、皮膚が動いている。線が動けば通りが悪くなる。ドルガが、上級の3人を抑えきれなかった理由の半分は、たぶんこれだ。
俺は掌を当てた。
1枚。2枚。3枚。
刻印を入れるのは、削るのと同じだ。器の縁をなぞって、そこに線を落とす。器より大きく入れれば焼ける。小さく入れれば余る。
ドルガの器は、3枚で、わずかに余った。
「……熱い」
老人が言った。それだけ言って、あとは歯を食いしばった。
11人の刻印を入れ直して、残る49人を測った。刻印を入れられる器を持っていたのは、そのうち14人だった。1枚が11人、2枚が3人。
35人には、何も無かった。
「この者たちは……いかがいたしましょう」
「刻印は器で決まる。器は変わらねえ。そいつらは、闇魔法を使わない者として使え。飯は同じだけ食わせろ」
最後に、俺は広間の真ん中に立った。60人が黙った。
「ひとつ言っておく」
「刻印をあてにするな。俺が入れたもんだ、俺が消したら使えなくなる。刻印が無くてもやれるようにしとけ」
「借りを作るな。作ったら返せ。返せない額を借りるな。動くときは取引で動け」
「手を出されるまでは、何もするな。やられたら、相手の一族ごと返せ。半分にすると、残りが恨む」
俺は、そこで一度切った。
「以上だ」
◇
——わたしは広間の後ろで、壁に肩をつけて聞いておりました。
説法を聞くつもりでおりました。聞こえてきたのは、借りと、返しと、数え方でした。前の方の若い者が2人、顔を見合わせていました。わたしもたぶん、あの2人と同じ顔をしていたと思います。
老人だけは、書き取っておりました。
刻印は、契約でもある。
入れられた者は、入れた者を裏切れない。だからこの60人は、俺がヴァルゼードだと知っていて、それを外へ出せない。「主の名を外で口にしない」という第一の掟を、ドルガは18年守らせてきた。守らせてきたところに、刻印が入った。
出口が、《《二重に》》塞がった。
「ドルガ。金貸しとの話は、切れ」
「……食い扶持が」
「南街区の金の流れが、あんたらには見えている。誰がいつ、いくら動かしたか。それを毎月、まとめて出せ」
「どなたへ」
「フィーネに」
老人は、フィーネを見た。フィーネは、いつもの通り腕を組んで壁に肩をつけていた。
「かしこまりました」
ドルガは頭を下げた。
「あの、主よ」
「今度はなんだ?」
「その、木箱の子らは」
「置いておけ。返す先が決まるまでだ」
◇
——老人が下がってから、わたしは、お優しいのですね、と言いました。言ってから、しまったと思いました。
あの方は、こう仰いました。
「9人ぶん、帳面に無え。勘定が合わねえ」
わたしは、それを書き取りませんでした。何と書けばいいのか、今も分かりません。
その晩、木箱の部屋に、シャルの母親がいた。
王都へは、シャルも付いてきていた。7日の道で、馬の世話と夜の見張りを、誰にも頼まれずに引き受けていた。着いてからは昼に俺の後ろを歩き、夜は市の外れの、母親の宿へ帰っていた。
母親は、藁の上に外套を並べ直していた。昨日まで敷いてあったのと同じ外套で、色だけが違う。洗って、日に当てて、夜のうちに戻しに来たのだ。部屋に、日に焼けた布の匂いがこもっていた。
「勝手をいたしまして」
母親は俺に気づくと、膝をついたまま頭を下げた。
「干す場所が、宿の裏にしかございませんので」
「……また勝手なことを」
「はい。存じております」
「……助かった」
母親は、外套を並べる手を止めて、また並べ始めた。
霜焼けの女児が、母親の膝の横で、乾いた外套の端を両手で握っていた。今度は、離さなかった。
母親が、その手をほどきにかかった。指を1本ずつ外して、外した端から、また握られた。3本目で、母親の手が止まった。
「返しなさい」
女児は首を振っただけで、声は出さなかった。
俺は自分の外套を脱いで、藁の上に落とした。
「それも敷いとけ」
「そのようなことは——」
「7日、馬に乗せた外套だ。汗を吸ってる。洗ってから使え」
母親が、膝をついたまま顔を上げた。何か言おうとして、口を開けた。
「そいつが離さねえからだ」
母親は、口を開けたまま下を向いた。その先に、女児の両手があった。
女児は、片手を新しく落ちた方の外套へ移して、その端を握っていた。もう片方は、乾いた外套を握ったままだ。
シャルは、戸口の脇の壁に背をつけていた。
「明日の朝、出る。支度をしておけ」
「王都に、残ります」
前置きが無かった。俺が何か言う前に、シャルは続けた。
「毎月の帳面は、わたしがフィーネ様のところへ運びます。教団の人たちが夜にどこへ出ていくかも、屋根から見ておけます。この子たちが、どこへ返されるかも。母の宿も、ここから近いので、それも」
一息だった。息を継ぐところで継がないので、最後の方は声が掠れていた。
話しているあいだに、シャルは壁から離れて、俺の外套の裾を掴んでいた。並べ終えても、手はそこにあった。
「……来いと、言われたら」
声が、そこで上ずった。
「行きます。……行きたい、です。でも帳面が、あの子たちも」
裾を掴んだ指に、力が入った。
「言わないで、ください」
何か言うことがある気がした。
「分かった。帳面は、あんたに任せる。月の頭に出させろ」
シャルは、裾を掴んだまま頷いて、顔を上げなかった。
「おまえ、手」
母親だった。外套の皺を伸ばす手を止めずに言った。
シャルは自分の手を見て、火に触れたように離した。その手の置き場が無いらしく、腿の横で握ったり開いたりしていた。
俺は部屋を出た。扉を閉める前に、母親の声が聞こえた。
「おまえが決めたのかい」
「はい」
「そうかい」
それきり、藁の鳴る音しかしなかった。
◆
王都を出たのは、その翌朝だった。
宰相の座には、もう別の男が就いている。エリシアが押し込んだ男だ。門を出るとき、その男の名で書かれた通行の札を、フィーネが衛兵に見せた。半年前は、この門で足を止められた。今日は、札1枚で通った。
門に、シャルは来なかった。
俺は、一度だけ振り返った。
門の内側は、朝の市へ向かう荷車で詰まっていた。石畳に、屋根の影が3つ落ちている。屋根の上には、何も乗っていなかった。
名前は呼ばなかった。呼べば、あの女は屋根から降りてくる。
「殿下は、当分王都をお離れになれませんわ」
フィーネが、札を懐へしまいながら言った。
「そうだろうな」
「あなたのせいですよ。宰相の席を空けたのは、あなたですから」
「おい。俺が悪いのか?」
「今のは、お答えしたくありませんわ」
札をしまう手つきが、いつもより乱暴だった。何に腹を立てているのか、俺には分からなかった。訊く前に、フィーネは馬を先に出していた。
俺は、坂の上で、南街区の方へ顔を向けた。
焼いた小麦の匂いが、風に乗ってここまで来ていた。動かない水の匂いの方は、来なかった。
俺には、まだ答えていない問いがひとつある。
老人が出したやつだ。あれに答えが出るまでに、たぶんもう少しかかる。それまでに、俺は次元魔法を手に入れなければならない。それで魔界へ渡って、18年前の冬に人間界へ来た女が、生きているかどうかを確かめる。




