第54話 答えが出てこない
「18年、待ったのか?」
俺は言った。老人は額を床につけたままだった。
「誰に言われて待った?」
「……お方様に」
ドルガは、そこで初めて顔を上げた。
「お名は、名乗られませんでした。女の方でございました。背丈はわたしと同じほど、髪は黒く、腰まで。お声は、低うございました。はじめは年に2度お見えになって、刻印と、御名を……いえ、御名が先でございます。御名を授かって、刻印は後から。それが3年に一度ほどになりまして、最後が——」
老人は、唇を舐めた。
「18年前の、冬でございます」
俺は、天井の梁を見た。
3人とも女だ。3人とも髪が長い。1人は黒だ。だが、俺が知っている黒髪の女は、腰まで伸ばしていなかった。伸ばしていたのは18年前より、もっと前の話だ。
分からねえ。
俺が天界で死んだのは、18年前の秋だ。
あの女は、俺が死んだあと、一度だけ人間界へ渡っている。渡って、刻印を入れて、それから来なくなった。
来なくなった理由は2つしかない。渡る手段を失ったか、本人が消されたかだ。
「そのとき、何か言っていたか?」
「はい。近いうちに、この界に主がお生まれになる。そのとき、名を知る者が要る。だから、名を消すな、と」
俺は、爪先に当たっていた玉を、横へ転がした。
あの女は、俺の仕掛けを知っていた。俺が転生の術式を仕込んでいたことを、俺は3人にだけ話している。だから最後の一度は、報せに来たのだ。刻印を入れに来たのではない。人間界に、俺の名を覚えている口を残しに来た。
そのために60人を作った。
そして、そのうちの11人が、今こうして俺の前で壁にへばりついている。
「立て」
ドルガは立った。膝の砂を払わなかった。払う所作を知らない立ち方だった。
「あんたら、この18年、何をしてた?」
「主のお名を、絶やさぬように」
「中身は」
「……日に2度、御名を唱えます。朔の日には、南の拠点から地方の2つへ、使いを出します。若い者には、所作と、言葉を」
ドルガは、卓の一番奥の櫃を開けた。鍵は使わなかった。掛かっていない。
中から出てきたのは、3つだった。
1つ目は、綴じ直した本だ。革の背が3度替わっている。紙は縁から茶色くなっていて、字には3人分の筆跡があった。最初の筆跡だけが、大きい。
2つ目は、割れた印だった。木の柄に、鎖と円が彫ってある。円の側が真っ二つに割れて、麻紐で縛ってあった。
3つ目は、老人の左腕だった。ドルガは袖をまくった。
前腕の内側に、黒い筋が3本。その下に、白く盛り上がった古い火傷が広がっていた。刻印は、皮を焼いてから入れる。焼いた面積が、今の刻印の3倍あった。
「1人目に入れていただいた場所でございます。あの方は、焼き方をご存じありませんでした。3人焼いて、3人目で覚えられました」
「1人目が、あんたか」
「はい」
「残りの2人は」
「1人は8年前に。もう1人は、去年の冬でございます」
ドルガは、時間をかけて袖を戻した。
「本は、3人で書きました。書けなくなった者から、書ける者へ渡しております。わたくしで3人目でございます。4人目は、まだ字が下手でして」
「他には」
ドルガは、そこで口を閉じた。
それから、卓の上の紙の束を見た。俺も見た。数字が並んでいる。貸した額、返す日、利。手前の1枚に、赤い線が3本引いてあった。3度、期日を過ぎたということだ。
「取り立てか」
ドルガは、紙の束から目を離さなかった。
「……食わねば、なりません」
◇
——取り立ての件をゼノ様に報告したのは、わたしです。
報告したときは、腹が立っていました。60人もいて、金貸しの下で、路地を暗くして。それが、食わねばなりません、の一言で、腹の立てどころが分からなくなりました。わたしは、頷きかけていました。
ゼノ様の背中は、少しも動いていませんでした。怒っているのか、呆れているのか。ずっと見てきたはずの背中が、ひとつも読めませんでした。
「悪名ってのは、勝った相手の名前で決まる」
「あんたらが上級の闇魔法を撃った相手は、この5年、1人残らず、金を返せない人間だ。名前が1つも残っていない。1つもだ」
ドルガは、動かなかった。
「三界を跨いだ名だ。それを、路地を暗くするのに使った。宿1軒ぶんでな」
老人の喉が、一度動いた。
「わたくしどもは」
声が、さっきより小さかった。
「俗世で、生きております。主のお名にふさわしい行いを、と、何度も申し合わせました。何度もでございます。ですが、若い者に飯を食わせ、家賃を払い、病んだ者の薬を買いますと、月の終わりには、何も——」
「食わせなきゃ、ならなかったんだろ」
「……何も、残らないのでございます」
俺は、卓の紙を1枚取って、指で弾いて、戻した。
「では、あなた様は」
俺は顔を上げた。老人は、まっすぐこちらを見ていた。さっき床に額をつけていた男と、同じ目ではなかった。
「王女様の護衛をなさって、大学に通っておられると聞きました」
「……」
「それは、俗世ではないのですか」
俺は、答えなかった。
答えなかったのではない。《《答えが、出てこなかった》》。
俺は人間の娘の護衛をして、人間の大学に籍を置いて、人間の飯を食っている。宰相を1人潰したのも、金でも国でもなく、シャルの母親を返させるためだ。
この老人は、18年、俺の名を唱えて、取り立てをして、飯を食った。
俺は、18年、穴の底にいて、それから飯を食っている。
何が違う。
三界にいた頃、俺に問いを返した者は1人もいなかった。返せば死ぬからだ。
「ゼノ様」
背後でフィーネが言った。彼女が口を挟むのは初めてだった。
「……答えてください。わたしも、聞きたいです」
「今は、無い」
ドルガは、深く頭を下げた。勝ったという顔をしなかった。
「差し出がましいことを申しました」
「いや。明日、全員集めろ。60人だ。地方の2つも呼べ」
「……何を、なさいます」
「入れ直す」




