第53話 18年、お待ちしておりました
7日で着いた。
南街区は、前に来たときと同じ匂いがした。焼いた小麦の匂いと、動かない水の匂いが、路地の入口で1本に混ざる。市の裏へ回ると、小麦の方が消えて、水の方だけが残った。
3本目の路地の突き当たりに、扉があった。
その脇に、石が据えてあった。膝の高さの、四角い石だ。表に紋章が彫ってある。鎖が3本、円を締めている図案だった。彫りは浅い。彫った者が、途中で道具を持ち替えている。
「フィーネ」
「ええ」
「秘密結社ってのは、看板を出すものなのか?」
「わたしに訊かれましても」
「彫りが浅い。途中で道具を替えてる」
指で撫でると、彫り口がざらついた。
「……そこを気になさいますの」
「鎖が3本だ。締まってねえ。円の方が太い」
フィーネは石を覗き込んでから、腕を組み直した。
「言われてみますと、緩んで見えますわね」
「緩んでる」
「……わたしは、何を見せられていますの」
扉を、闇魔法で落とした。
蝶番を2つとも溶かしただけだ。扉は真っ直ぐ内側へ倒れて、床の敷石に当たって鳴った。埃が腰の高さまで上がった。
中は、思ったより広かった。奥へ長い。天井が低く、梁が頭のすぐ上を走っている。両側に木の卓が並んで、その上に紙の束と、勘定に使う玉の並んだ盤が置いてあった。
その盤の前に、若い男が5人いた。
「——な、何者だ」
真ん中の1人が立ち上がった。20歳そこそこだ。黒い外套の裾を掴んで、大きく広げてみせた。そういう所作を教わっているらしい。
裾が、卓の勘定盤に引っかかった。
男は一度たたんで、広げ直した。2度目の方が下手だった。
「ここを、どこだと心得る」
「知らねえ」
「我らは黒鎖の——」
卓の勘定盤の玉が、ひとつ鳴った。
「入口の石は、あんたが彫ったのか?」
「は、話を——我らは、黒鎖の——」
「鎖が緩んでるぞ」
「黙れ! 我らは——」
俺は、その男の襟を掴んで、卓の上に伏せた。
「3度目は、聞かなかったな」
盤が跳ねて、玉が床に散った。その音が奥まで転がっていって、そこで足音に変わった。奥から人が出てくる音だ。1人ではない。
出てきたのは11人だった。
前に3人、その後ろに5人、一番奥に3人。並び方で階位が分かる。位の高い者を前に置く隊列だ。人間の兵はこれをやらない。悪魔のやり方だった。
前の3人が、掌を上に向けた。
陣が、3枚ずつ重なった。
上級の闇魔法だ。人間の身体で、上級の闇を通している。左の男は肘から先が黒く染まっていて、その黒が皮膚の下で脈に沿って動いていた。刻印は皮を焼いてから入れる。焼き方が下手だと、こうなる。
3人が、同時に撃った。
部屋が、暗くなった。
《《それだけ》》だった。
窓から入っていた昼の光が消えて、俺の足元の敷石が見えなくなった。それで終わりだ。闇はどこも噛んでいない。俺の外套の裾も、髪の1本も動かなかった。
奥の1人が、暗がりで口を開いた。
「……効いて、おりません。もう一度」
3人がもう一度撃った。今度は暗さが少し濃くなった。
「……効いて、おりません」
「分かっている。もう一度」
3度目で、部屋は何も見えなくなった。俺の足元も、あいつらの顔も。
「おい」
「……はい」
「あんたら、見えてるのか?」
答えが無かった。代わりに、奥で誰かが卓にぶつかる音がした。盤が落ちて、玉がまた散った。
「灯りを。灯りを持て」
火打ちの音が3度した。3度目でようやく蝋燭に火が点いて、11人が自分たちの手で部屋を明るくした。
俺は、掌を一度だけ振った。
前の3人が、後ろの8人ごと壁まで飛んだ。
陣は組んでいない。組む必要が無かった。魔力を薄く広げて、押しただけだ。壁に当たった11人のうち、9人はそのまま滑り落ちた。残る2人が、膝で身体を支えた。
俺は歩いた。床の玉を踏むと、乾いた音がした。
「上級が3人と聞いた」
「……はい」
「その上級で、あんたらは何を落とした」
答えが無かった。
「今まで、誰を倒した?」
答えが無かった。
「名前を1つ挙げろ」
◇
——わたしは、扉の外の壁に肩をつけて、腕を組んでいました。
中の音は、3つしか聞こえませんでした。扉が倒れる音。玉が散る音。壁が鳴る音。ゼノ様の足音は、入る前も、入ったあとも、同じ速さでした。
足音が止まるのを、待っていました。
止まりませんでした。
組んでいたはずの腕が、いつの間にか解けていました。解けた右手が、背中の壁の石の角を掴んでいました。爪が1枚、白くなるほど。あの方を王国の膿に向けたのは、わたしです。
お名前を呼べば止まるのかどうか、わたしは知りませんでした。呼ぼうとして口を開けたら、中から流れてきた埃を吸って、咳が出ました。咳をしているあいだに、壁が鳴りました。
「お待ちください」
奥の階段から、声が降りてきた。
老人だった。60は過ぎている。白い髪を後ろで1つに束ねて、肩の下まで垂らしている。背は高くない。肩の肉は落ちているのに、前腕だけが太い。荷を担いだ者の腕ではなく、長い年月、同じ重さの棒を毎日持ち上げた者の腕だった。
降り方が遅い。1段ずつ、後ろの足を揃えてから次へ行く。膝が悪いのではなく、この降り方しか身体が知らないという降り方だった。
「教主様——」
「下がりなさい」
声が低かった。喉で押さえて、腹から出す声だ。人前で長く喋ってきた者の出し方だった。
老人は、階段の3段目で止まった。そこから俺を見た。それから、俺の掌を見た。
見て、動かなくなった。
「その押し方は……陣を組まず、魔力量だけで押している。そのやり方ができる者は、1人しか」
俺は答えなかった。
老人は、階段を降りきってから、床に膝をついた。両膝だ。手を床につけ、額を敷石に当てた。前腕の内側に、黒い筋が3本走っているのが見えた。3枚だ。この教団で、一番古い。
「ヴァルゼード様」
背後で、フィーネが息を止めた音がした。
「お迎えに、上がれませんでした」
老人は、額をつけたまま言った。
「ドルガと申します。18年、お待ち申し上げておりました」




