第52話 安いからだ
悪魔を崇める者というのは、人間界にいくらでもいる。前世でも報告は上がってきた。名を彫った石を並べて、山羊を裂いて、その血で床に円を描く。その円は3枚のうち1枚も合っていない。俺の名を呼んでいるつもりで、呼べていない。届いていたら、俺が行っている。
だから俺は、椅子から動かなかった。
「人数は」
「60ほどですわ。拠点が3つ。王都の南街区に1つ、地方に2つ」
「小せえな」
「ええ」
講堂の裏は西日が入らない。石壁が昼の熱を抱えたまま冷めていく時刻で、背中に当たる面だけがまだ生温かった。フィーネは壁から肩を離して、指を1本立てた。
「ですが、妙なことがひとつ」
俺は先を待った。
「その者たちの中に、上級の闇魔法を使う者がいますの」
俺は、椅子から立った。
闇魔法は悪魔のものだ。人間が闇を通すには、身体に刻印を入れるしかない。刻印がある間だけ闇が通る。器は本人のものだから、初級の器しか持たない人間に上級の刻印を入れても、身体が焼けて終わる。そして刻印を入れられるのは悪魔だけだ。
「何人だ」
「上級が3人。中級が5人。初級が3人。合わせて11人と聞いていますわ。残りの49人は使えません。所作と、言葉だけを覚えています」
11人。この人間界に、人間の身体で上級の闇魔法を通す者が3人いる。近衛の中堅より強いということはないだろう。だが、そういう問題ではなかった。刻印は、入れられる者がいなければ増えない。なら、古いものが残っているということだ。
「そいつらは、主を何と呼んでる」
「内輪では、名で呼んでいるそうですわ」
娘は、少し声を落とした。
「ヴァルゼード様、と」
塔の光が、白から青に変わった。夕だ。
俺は掌を見た。前世でこの名を口にできた者は、三界に十を数えるほどしかいない。呼べば俺が答える。答えるから、呼ぶには覚悟が要った。その名が、人間界の南街区で、60人の口に載っている。
「もうひとつ、ありますの。その者たちは、南街区の金貸しに雇われています」
「……なんだと」
「取り立てです」
フィーネは、俺の顔を見ていなかった。壁の方を向いたまま、報告を最後まで読み上げる者の速さで続けた。
「上級の3人は、取り立ての場で闇魔法を使います。使い道は、あたりを暗くすること。それだけです。この5年、あの者たちが倒した相手の名は、1つも上がってまいりません。上級ですよ。上級を3人も抱えて、路地を——」
フィーネは、そこで口を閉じた。最後の方は、声が石壁に跳ね返っていた。
俺は椅子に座り直して、天井を見た。梁の隙に蜘蛛の巣が張っていて、そこに埃が溜まって灰色になっている。
三界の頂に立った男の名を、60人が朝晩呼んでいる。呼んで、それから金を取り立てに行く。上級の闇魔法で路地を暗くして、銅貨を数えている。
「儲かってるのか?」
「月に、宿の1軒ぶんほどかと」
《《宿の1軒ぶん》》。
「……怒っていますね」
「あぁ」
「悪事に使われたからでしょう。わたしだって——」
「違う」
梁の蜘蛛の巣が、埃ごと揺れていた。窓は閉まっている。
「俺の名が、宿1軒ぶんだ。安すぎるだろうが!」
フィーネが、初めてこちらを向いて、少し口を開けて、それから閉じた。腕を組み直す音が、布のこすれる音になって聞こえた。
「……ええ」
やっと出たのが、それだった。
「もうひとつ。その刻印は、いつ入れた?」
「古参の11人は全員、若い頃に刻印を受けたと言っていますわ。一番新しい者で、18年ほど前かと」
俺は、動きを止めた。
18年前。俺が天界で殺された年だ。
そこまでは、人間界に来ていた者がいる。俺の下にいた誰かが、この国まで足を運んで、人間に刻印を入れていた。入れられるのは悪魔だけだ。それも、上級の闇魔法を扱える悪魔だけだ。その足が、18年前にぱたりと途絶えた。来なくなったのではない。来られなくなったのだ。
俺は、机の縁を握っていた。木が指の形に凹んで、ようやく気づいた。俺が死んだ年に、足が途絶えている。偶然なら、それでいい。偶然でないなら、俺を殺した誰かは、俺ひとりで済ませていない。渡っていた者が生きているなら、向こうで足を失ったまま18年待っていることになる。死んでいるなら、それまでだ。
俺の側近は3人いた。3人とも、俺より弱い。
「ゼノ」
「南街区の拠点はどこだ」
「市の裏、3本目の路地の突き当たりです。門に石が1つ据えてあるそうで、その石に紋章が彫ってあると」
「明日、発つ」
「王都まで、8日です」
「7日で行く」
「今朝の——」
フィーネはそこで切って、壁から肩を離した。
「……7日ですね」
言い直して、頭を下げた。
俺が知りたいのは、教団のことではない。18年前に、誰が生きて、誰が死んだかだ。




