第51話 全員が言う
シャルが俺の部屋に来るようになったのは、大学に戻って10日ほど経った頃だった。最初は用があった。俺の講義の記録を届けに来る。翌日は、洗った衣を持ってくる。その次は、朝の水差しを替えに来る。
どれも、頼んでいない。そして、どれも少しずつ違っていた。水差しは毎朝、縁の際まで満たしてある。注ぐと必ずこぼれる。洗った衣は畳まれずに、細長く固く巻いてあった。刃物を布に包んで持ち歩くときの巻き方だ。
4日目の朝、扉の外で声がした。
「それは、わたしの仕事です」
リィナの声だった。
「リィナ様は、護衛です」
「ずっと、わたしがしています」
「では、今日からはわたしが」
扉を開けると、2人が廊下で、巻いた衣の束を両側から掴んでいた。どちらも放さなかった。俺に気づいて、リィナの方が先に手を離して、何も言わずに持ち場へ戻っていった。翌朝、畳み直された衣の山の上に、また巻いた衣が1本載っていた。
「わたしは、ゼノ様の側仕えですので」
その日、訊いてもいないのに、シャルはそう言った。
「誰がそう決めた」
「わたしが」
即答だった。母を人質に取られて俺を殺しに来て、返り討ちにされて、母を助けられて、それから一度も俺に礼を言っていない。
◆
その夜、俺は眠っていなかった。灯を落として横になっていただけだ。窓が、音もなく開いた。風は入ってこない。開いた分だけ、外の冷気が床を這ってベッドまで届いた。
ベッドの脇に、人が立った。足音も、衣擦れも、呼吸の音すらしなかった。
「シャル」
息を呑む音がした。
「灯を点けろ」
小さな火が灯った。シャルが立っていた。夜着のままで、履き物もない。その格好で3階の外壁を登ってきたことになる。髪が乱れて、頬に土がついていた。
「……おはようございます」
「夜中だ」
「そうでした」
彼女は目を伏せ、それから顔をまた上げた。
「お世話に参りました」
「何のだ」
「夜のです」
俺は上体を起こした。
「これは、支払いか。母親を返してもらった。返せるものが無い。だから身体を出す。そういう話なら、要らねえ」
「違います」
早かった。早すぎて、言った本人がいちばん驚いた顔をした。
「違います。……違うと、思います。最初は、そうでした。宿で、母が寝たあと、ずっと。そういう払い方しか、知らないので」
冷気が、まだ床を這っていた。シャルは、夜着の膝を両手で握った。
「今は、分かりません。ゼノ様の部屋の前を通ると、息がしやすいんです。どうしてなのか、分かりません。喉を切りに来た部屋なのに——おかしいです」
言ってから、開いたままの窓を見た。
「母に、何をしに行くのかと訊かれました。答えられませんでした。今も、答えられません」
俺はベッドの縁を叩いた。彼女は座った。座るまでに、一度立ち止まった。
俺は手を伸ばして、頬の土を親指で拭った。シャルの身体が跳ねて、それきり動かなくなった。逃げも、寄りもしなかった。
「……誰にも、こういうふうには、触られたことがありません」
指を離すと、シャルは自分の頬に手をやって、俺が拭った場所を指先で確かめていた。
身体が冷えていた。夜着の上から背中に掌を当てて、熱を通した。魔法ですらない。魔力を熱に変えて流すだけの、子供の遊びだ。
「……あたたかい」
「壁を登るからだ」
「明日も登ります」
「扉から来い」
シャルは返事をしなかった。俺の手が離れた背中を、少しだけ後ろへ倒した。
「ゼノ様」
「どうした?」
「……ここにいろと、言ってください」
何を頼まれているのか、分からなかった。命じてくれと頼まれたのは、三界でも初めてだった。
「ここにいろ」
「はい」
「……いや。命令じゃねえ。あんたがいたいなら、いろ」
「……はい」
2つ目の返事は、1つ目より小さかった。
彼女は、ベッドの端に横になった。俺に背を向けて、窓の方を向いていた。目は開いていた。
灯を落とした。
樋の水が、石畳に落ちる音がしていた。一滴ずつ、間が空いていく。落ちるたびに、隣の背中が小さく固くなった。夜番の鳥が一度鳴くと、背中はまた固くなった。俺は寝返りを打たなかった。肩が痺れても、打たなかった。
樋の音が途切れて、その少しあとで、シャルが寝返りを打った。窓に背を向けて、こちらを向いた。額が、俺の肩の手前で止まった。息が、長くなった。
◆
朝になっても、シャルは眠っていた。窓から入ってくる人間が、窓に背を向けて眠っている。
起こす気にはならなかった。だから俺は、扉が開く音にも動かなかった。
「ゼノ、お茶を——」
リィナだった。盆が傾いた。茶器が落ちて、絨毯の上で鈍い音を立てた。
その音で、シャルが跳ね起きた。右手が腿を探った。短刀を差していない腿だった。探る手が止まって、部屋を見回して、最後に俺を見た。
「……寝て、いました」
「ね、寝て……あ、あな、あなた——」
リィナの声が裏返った。
「窓からですか。また、窓からですか。わたしは一晩じゅう、扉の外にいました。一晩じゅうです」
「知ってる」
「知ってる、で済む話ではありません。わたしには、下がれとしか仰らないのに!」
リィナは盆を床に叩きつけた。もう落ちている茶器の上に、盆が重なった。
「あなたも、あなたです。扉から来なさい」
「扉には、リィナ様がいらっしゃいますので」
リィナの顔が、耳まで赤くなった。
「寝てただけだ」
俺が言ったのと、廊下から足音が2つ増えたのが、同時だった。エリシアと、フィーネだった。
エリシアは扉の前で立ち止まって、絨毯の茶器を見て、盆を見て、ベッドを見た。
「……さようでございますか」
それから、ひとつ息を吸った。
「側仕えという役は、この大学にはございません。届けも出ておりません。部外の者を夜間に寮へ入れるのは、規則に反します。窓の掛け金は、今日中に替えさせます。それから、茶器は大学の備品でございます」
一息だった。
「殿下。茶器の話ですか、今」
フィーネが言った。扉に寄りかかって、腕を組んでいた。
「今です」
「……へえ。わたしより先に、この子ですか。いえ、わたしには、先も後も関係ありませんけど」
「先も後もねえだろう。寝てただけだ」
「寝ていただけで済む話では——」
「夜間の立ち入りは、まず届けを出していただかなければ——」
「わたしには先も後もありませんけど、順番の話をお始めになったのは殿下——」
3つが重なって、ひとつも聞き取れなかった。
前世では、誰も俺に文句を言わなかった。
今は、《《全員が言う》》。
エリシアが先に踵を返した。フィーネがそれに続いた。リィナは最後まで残って、床の盆を拾わずに出ていった。扉は、開けたままだった。
俺は廊下へ出た。
リィナは、階段の踊り場で止まっていた。俺の足音で、振り返らないまま背中が固くなった。
「おい」
手すりを握ったリィナの指が、白くなっていた。
「昨夜は、何も無え」
「……そうですか」
「あの女は窓から来た。俺は寝てた」
「知っています。一晩じゅう、扉の外におりましたので」
「だから、その……あんたが外にいたのは、無駄じゃねえ」
リィナが振り返った。
「無駄だと、思っておりました」
言ってから、自分の言葉に驚いた顔をした。驚いた顔のまま、階段を下りていった。
(……どこで間違えた?)
俺は、間違えたところを探した。見つからなかった。
シャルが、ベッドの上で膝を抱えていた。
「……誤解は、解かなくてよろしいのですか」
「……俺が何て言えば、あいつらは納得するんだ?」
シャルは膝に額をつけた。肩が震えていた。泣いているのかと思ったら、笑っていた。声は、膝の中でくぐもっていた。
昼前に、錠前の職人が3人来た。
エリシアの届けは、その日のうちに受理されていた。書付に「寮舎東棟三階、窓金具、全数交換」と書いてある。全数だ。俺の部屋だけではない。
リィナが立ち会った。職人の後ろに立って、1つ替わるごとに頷いていた。
「これで、窓は開きません」
「……そうか」
「開きません」
2度言った。
シャルは壁際に立って見ていた。頼まれてもいないのに、外した古い金具を拾って、布で拭いて、揃えて並べていた。
職人が帰ってから、シャルは新しい掛け金に指をかけた。
「この形は、外から開きます」
2人が、止まった。
「……なんだと?」
「爪の先を、この隙間に。庇の上に乗れば、手が届きます。古いのより、音が出ません」
「静かってのは、いい話じゃねえだろ」
「はい。静かです」
リィナが窓の前に立って、動かなかった。
「今夜、わたしはここで寝ます」
「寝ろとは言ってねえぞ」
「寝ます」
シャルは、並べた古い金具の列を指で真っ直ぐ直してから、こう言った。
「扉から参ります」
「そうしろ」
「リィナ様が、扉にいらっしゃらない日に」
◆
その日の午後、フィーネが講堂の裏の小部屋で俺を待っていた。
壁に肩をつけて、腕を組んでいる。朝のことには一言も触れなかった。触れないまま、前置きもなしに言った。
「王都に、悪魔を崇める者たちがいますの」




