第50話 返せないもの
裁定は、その場で出た。エリシアは紙を1枚も見ずに読み上げた。4日、馬の上で組み立ててきたのだと分かる読み方だった。
「宰相の職を解きます。財は国庫へ。領は分けて、隣の3家へ移します」
ダリオンは、一度だけ頷いた。
「家名は、残します。ご子息に継がせます。ただしご子息には、王都の外に出ることを許しません」
「……ありがとうございます」
エリシアは礼には触れず、一度、息を継いだ。
「閣下の身柄は、流刑といたします」
ダリオンは、顔色を変えなかった。流刑という言葉が、この国で何を指すかを、誰よりも知っている。決めたのは、20年前の本人だ。
「どこへ、でございましょう」
「北の穴でございます」
部屋が、静かになった。窓の外で、王宮の鐘が鳴った。夕の鐘だ。この王都は、光ではなく鐘で時刻を報せる。
「……わたくしが選びました場所でございますな。殿下を、あそこへ送るつもりでおりました」
「存じております」
エリシアは、紙を畳みはじめた。角が、2度合わなかった。
「ですから、そこにいたします」
俺は、扉の枠にもたれたまま、フィーネを見た。
窓際の壁から、一度も肩を離していなかった。腕を組んで、裁定の間じゅう、ダリオンではなくエリシアを見ていた。
「フィーネ」
「ええ」
「これで、潰したことになるか?」
娘は、壁から肩を離して、俺ではなくエリシアの方へ口を開いた。
「……北の穴でしたのね。わたしは王宮の塔へ幽閉なさるものと」
エリシアは、紙を畳む手を止めなかった。
「お見立て違いでございましたね」
「ええ。外れました」
フィーネは腕を組み直したきり、俺の問いには答えなかった。
移送は、6日かかった。
北の穴は、岩場の裂け目にある。
俺はここから出てきた。その日は雨で、坂の下でエリシアが10人に囲まれていた。それが、俺と人間界の最初の取引だった。
裂け目の前に立つと、下から風が上がってくる。冷たくはない。生ぬるい。地面の下に生きているものが多いと、風はこういう温さになる。石灰の匂いと、鉄の匂いが混ざっている。
「ゼノ殿。ここは」
「俺が18年いた場所だ」
男が、俺を見た。初めて、その目に驚きがあった。それも、半歩下がったときと同じで、本人が隠すのを忘れていた。
「……18年」
「生まれてからだ」
「では、貴方様は」
「流された者の子ということになる。書類の上ではな」
俺は、裂け目の縁に石を1つ蹴り落とした。音が返ってこなかった。
「ここは、入ったら出られねえ。出るには、一番下にいるものを殺すしかない。殺しても、また湧く。誰も殺せねえから、誰も出てこない。だから流刑の場所として使える」
「はい」
◇
——あの岩場で助けていただいてから、わたくしはそこで初めて、この方に伺いました。
伺うつもりはございませんでした。口が、先に動いたのでございます。
「ゼノ様は、なぜ出てこられたのですか」
この方は、裂け目を見たまま答えられました。
「一番下にいるものは、とうに殺していた」
わたくしは、意味が取れませんでした。取れてから、指が冷たくなりました。いつでも、お出になれたのです。18年のあいだ、いつでも。
「では、なぜ」
「出る理由が無かった」
わたくしは、それ以上伺えませんでした。
伺いたいことは、ございました。では、あの雨の日は。坂の下で、わたくしが10人に囲まれていたあの日は、何があって、お出になったのか。
口を開けると、下からの風が入ってまいりました。生ぬるい風でございました。わたくしは口を閉じて、髪を押さえました。耳の上を撫でました。2度撫でました。いつもは、一度で足りるのでございますのに。
大学へ戻る馬車の中で、わたくしは、あのとき何と答えていただきたかったのかを考えて、恥ずかしくなって、やめました。
「時間だ。入れ」
ダリオンは、裂け目の前に立った。風で、白い髪が上に流れた。髪の乱れたところを人に見せたのは、たぶんこれが最初だ。男は手を上げて、髪を押さえかけた。押さえきらずに、手を下ろした。
「……下は、寒うございますかな」
裂け目の方を向いたまま、ダリオンは言った。
「生ぬるい」
「左様で」
男は、裂け目に降りた。縄も梯子も使わなかった。岩の出っ張りに、自分で足を掛けた。宰相府の絨毯の上しか歩いたことのない靴の底が、一度滑った。男は、滑った足を同じ出っ張りに掛け直した。
白い頭が、岩の間に沈んでいった。
俺は、裂け目の縁に立ったままでいた。風が、下から上がってくる。生ぬるい。18年ぶんの匂いだ。
「ゼノ様」
エリシアが、後ろから言った。
「戻りましょう。大学まで、8日——」
声が、そこで割れた。
エリシアは口を押さえたまま、俺を追い越して坂を下りていった。一度も振り返らなかった。
風が冷たいのかと思った。風は、生ぬるかった。
坂の下に、2人立っていた。
シャルと、その母だった。移送に付いてくると言ったのはシャルで、母を連れてきたのは俺ではない。この女が自分で馬車に乗った。
母親は、俺が下りきるのを待って、深く頭を下げた。それから、抱えていた布包みを差し出した。
「洗ってございます」
「……洗ったのか?」
「はい」
俺は、シャルを見た。
「あんたが言ったのか?」
「いいえ。母が、勝手に決めました」
包みは温かかった。日に干して、たたんで、そのまま抱えてきたのだと分かる温さだった。裂け目から上がってくる風と、同じ温度だ。
俺は、それを受け取った。
「……助かった」
女は、もう一度頭を下げた。その背が、さっきより低かった。
受け取ってから、気づいた。俺は今日、《《返せないもの》》をひとつ増やした。




