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第49話 膝をつきなさい

早馬を1頭、ミレイアへ出した。


エリシアが王都に着くまで、4日かかる。その4日、俺は宰相府の3階に居座った。ダリオンは執務を続けた。糸を張ったまま、机で書類を捌(さば)いた。穀物(こくもつ)の帳、国境の警備の割り当て、大学からの報せ。順番は変えなかった。


「閣下」


記録係(きろくがかり)が扉から声をかけた。


「本日の面会は」


「すべて断りなさい。風邪をひきました」


「かしこまりました」


ダリオンは、捕らえられていることを誰にも悟らせなかった。


40年、他人を前に立てて生きてきた男が、最後の4日だけ、前に立てる者を持っていなかった。


シャルは、母を市の外れの宿へ移した。


俺は一度だけ様子を見に行った。母親は、宿の裏で洗い物をしていた。頼まれてもいないのに、宿の分まで洗っていた。


「やめとけ」


「手が空きますので」


そう言われて、俺は引き下がった。シャルの物言いは、この女から来ていた。


シャルは俺の後ろで、母親の手ばかり見ていた。黒い髪が、耳の高さで真横に切り揃えてある。この4日で、頬の土は落ちていた。落ちると、意外に幼い顔だった。19には見えない。


母親は、絞った布を竿に掛けながら、俺の後ろに立っている娘の方へ言った。


「おまえ、この方のところへ行くのかい」


「……はい」


「何をしに」


母親は竿の布をもう一度絞った。水はもう出なかった。出なくなっても、手は布を捩じったまま離さなかった。


それから、布を落とした。


濡れた手のまま、母親はシャルの頬に触れて、両手で挟んだ。シャルの目だけが、大きく開いていた。5年、この2人は戸口一つ隔てて、一度も届かなかった。


母親の指が、頬から顎へ、顎から首へ下りた。首から肩、肩から腕。確かめる手つきだった。


前腕の内側で、止まった。


白い線が3本あった。細い。刃の傷だ。3本とも深さが揃っている。人に切られた傷は、深さが揃わない。


「これは」


「……仕事です」


「いつのだい」


シャルは、答えるまでに間を置いた。


「上から2本目が、15のとき。3本目は、17です」


「1本目は」


「……覚えて、おりません」


母親はその腕を離さなかった。離さないまま、もう一度首まで戻って、また前腕まで下りてきた。同じところを2度なぞった。


「痩せたね、とは言わないよ」


「はい」


「痩せたのは、こっちも同じだ」


俺は裏庭を出た。落ちた布が、そのままなのが見えた。拾う者は、当分出ないだろうと思った。


宿の階段で、シャルが俺の後ろについてきた。3段上がったところで、背中に声が当たった。


「これから、どうすればよろしいですか?」


「俺に訊くな。……あんたは、どうしたい?」


俺は階段を上がった。後ろでも、同じ数だけ板が鳴った。


「母のところに、戻りたいです」


俺は止まらなかった。下の裏庭で、竿がきしんだ。母親が、また布を掛け直している。


「でも、ここから離れたくありません」


後ろの板の音が、1つ遅れて、また追いついてきた。


「……ここに、いたいです」


板に吸われるくらいの声だった。


「母親には、あんたが言え」


俺は残りの段を上がった。


    ◆


4日目の夕方、エリシアが着いた。


馬から降りた足がふらついていた。3日を2日半で来た顔だ。それでも、髪は乱れていなかった。降りてから直したのだと分かる。人前に出る前に必ず一度、指で耳の上を撫でる。


「ゼノ様」


「早えな」


「遅うございました」


宰相府の3階で、4人が揃った。


エリシアが机の前に立ち、フィーネが窓際の壁に肩をつけ、ダリオンが椅子に座った。俺は扉の枠にもたれた。


「閣下。お認めになりますか」


「認めます」


「何を、でございますか」


ダリオンは、顔を上げた。


「ミレイア国立魔法大学に刺客を放ちました。相手はゼノ殿でございます。人質を取り、5年、その母親を宿に留め置きました。命じたのはわたくしでございます。金貸しを介したのは、名を残さぬためでございます」


「証拠は」


「南街区の金貸しの帳に、支払いが12回ございます。名義はわたくしの姉の嫁ぎ先でございますが、印はわたくしのものでございます」


エリシアが、動きを止めた。


「……閣下。なぜ、そこまで仰います」


「殿下。この国は、証拠で動きます」


俺は、扉の枠から背を離した。半年前、ダリオンはエリシアに向かって同じことを言った。あのときは、証拠が出ないという意味だった。


今日は、本人が出した。


「殿下。ひとつ、お願いがございます」


「伺います」


「息子は、何も知りません」


「存じております」


「あれには、家名だけ残していただきたい」


机の縁を掴んだエリシアの手が、手綱を握り通してきた形のまま固まっていた。


「領も、財も、要りません。名だけでございます。名が無いと、あれは何にもなれません」


扉が、外から開いた。ヴィントが立っていた。


顔が赤い。走ってきた赤さではない。いつもの赤さだ。血の巡りがよく、感情が全部そこに出る。金の髪を短く刈って、襟を高く立てている。肩幅が広く、右腕だけが太い。火魔法を右手から出す癖で、そちら側だけ鍛えた身体だ。


「父上を返せ」


俺は、ヴィントに何も言わなかった。


選抜で、俺に負けた。真正面から、手を抜かれずに負けた。それ以外に、俺とこいつの間には何も無い。


ヴィントは部屋を3歩で横切った。エリシアの前を通るとき、会釈もしなかった。俺の前で止まって、襟を掴んだ。太い方の、右手だった。指の節が白くなるほど締めてくる。拳の内側が熱い。掌に、火が溜まりかけていた。


「門で止められた。父上に会わせろと言ったら、衛兵が目を逸らした。風邪だと。父上が風邪をひいたことなど、一度も無い」


息が、俺の顎に当たった。


「返せ」


「ヴィント」


エリシアの声を、ヴィントは聞かなかった。


「返せ。父上は生きているんだろう。生きているなら、返せ。返せと、言っている」


同じ言葉が、同じ高さで3度出た。4度目で、声が上ずった。


右の拳が、襟を放して後ろへ引かれた。火の色が、指の隙間から漏れた。


「ヴィント」


ダリオンは、椅子から立たずに言った。


「膝をつきなさい」


拳が、途中で止まった。


「父上——」


「膝を」


ヴィントは、膝をついた。つく理由が分からないまま、つく癖だけが身についている膝のつき方だった。


ダリオンは、息子の頭の後ろを見て言った。


「この子は、何も知りません」


「知ってる。だから、こいつには何もしねえ」


ヴィントが顔を上げた。


「……何の話だ」


誰も答えなかった。ヴィントは、部屋にいる者の顔を順に見た。エリシア、フィーネ、俺。最後に、父親の顔で止まった。


「父上まで、そっちなのか」


ダリオンは、息子の頭の後ろにあった目を、机の上の書類へ移した。


ヴィントの右手が、床の敷物を掴んだ。火はもう出てこなかった。

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