第47話 3段目を鳴らせ
印が早く出たということは、呼び出しが早まったということだ。
呼び出しが早まる理由は2つしかない。次の仕事を渡すためか、渡す気がもう無いためか。
窓に板が打ってある。中の者に外を見せない措置だ。次の仕事を渡す相手に、そんなことはしない。
「シャル」
「はい」
「いつも、どこから入る?」
「表の階段です。3段目が鳴ります」
「わざとか?」
「はい」
「今日は、鳴らせ」
娘が、俺を見た。
「わたしが、先に入るのですか」
「あんたが入らねえと、あいつらは母親を動かす。人質ってのは、動かされると探すのに半日かかる」
娘は返事をしなかった。唇から色が抜けていた。壁の炭の線を、まだ見ていた。
「だから、いつも通りに入れ。階段を鳴らして、顔を見せろ」
「……ゼノ様は」
言いかけて、娘は言い直した。
「ゼノ様は、先に、上がっていてください」
「そのつもりだ」
俺は庇に手を掛けた。
「表の階段は3段目が鳴るんだろう」
◇
——2階の窓から入ってくる人間を、わたしは自分しか知りませんでした。
ゼノ様は、わたしなら登る壁を、登られませんでした。
壁の下に立って、影に手を入れて、そのまま沈まれたのです。溝の水に石を落としたときと同じ、音の無い沈み方でした。
わたしは5年、この稼業をしています。人が消えるところを見たのは、初めてです。
階段の1段目に足を載せて、わたしは、自分の膝が笑っているのに気づきました。怖いのか、そうでないのか、分かりませんでした。分からないまま、1段ずつ上がりました。
板を打った窓の裏側は、埃と、獣脂の灯りの匂いがした。
部屋は狭い。卓が1つ、椅子が2つ。奥の扉の前に、男が1人立っている。もう1人は椅子で眠っていて、剣を抱いていない。
俺は、灯りの影から出た。
「よう」
立っていた男が、こちらを見て、口を開けた。
声を出す前に、俺は喉に指を2本当てた。押しただけだ。魔法ですらない。男は膝から落ちて、そのまま前のめりに卓へ倒れた。器が転がって、床で回った。
その音で、椅子の男が目を覚ました。
「——だ、誰だ」
「客だ」
「客ぅ?」
男は立ち上がって、剣を抜いた。抜き方が遅い。鞘の口で一度引っかかっている。ここ数年、抜く場面が無かった男だ。
「奥に、女が1人いるな」
「い、いねえ」
「いる。窓に板を打つのは、外を見せたくない相手がいるときだけだ」
男の顔が変わって、剣を突き出してきた。
俺は避けなかった。剣先が胸に当たって、そこで止まった。刃は入らず、切っ先の方が曲がった。
「な」
「もう1本あるか」
「な、なんだお前」
「もう1本、と訊いてる」
男は剣を捨てて、奥の扉へ走った。
正しい判断だ。人質を取る。そのために5年、母親を生かしている。
扉に手が届く前に、俺は影を1寸だけずらした。
男の足元の影が、床から半歩ぶん先に伸びた。踏み込んだ足が、そこに乗った。そして、無かった。
男は顎から床に落ちた。歯が2本、床を跳ねていく音がした。
階段が鳴った。3段目だ。
俺は奥の扉を開けた。
蝶番は錆びていた。押しても引いても鳴る。だから蝶番を落とした。闇魔法で下の1本を削ると、扉は音を立てずに斜めに傾いて、俺はそれを抱えて壁に立てかけた。
中に、女がいた。
床に敷いた古い布の上に、膝を抱えて座っていた。40半ばくらいか。髪は白いものが半分で、後ろで無造作に結んである。結び目が下すぎる。自分で結ぶと、こうなる。
痩せていた。だが、腕の内側だけが硬い。洗い張りをやってきた腕だ。桶を持ち上げて、布を絞って、また持ち上げる。それを何十年もやると、前腕の外側ではなく内側が厚くなる。
俺を見上げて、女は逃げなかった。
「……あの子は」
最初の一言が、それだった。
「階段を上がってきてる」
女の顔が崩れて、それから、慌てて手で押さえた。
「奥様」
「奥様ではありません」
「そうか」
「洗い屋の女房です」
「なら、洗い屋。立てるか」
3段目の音の主が、扉の枠に立った。
シャルは、そこで止まった。入らなかった。
「入れ。もう、そういう決まりは無え」
娘は、それでも一度、俺の顔を見た。俺が顎を動かすと、走った。
母親は、娘の顔に触れなかった。触れる前に、両手を上げて、その手が止まった。
シャルの方が、その手を掴んだ。
自分の頬に、押し当てた。
俺は部屋を出て、扉の外に立った。
中から、声を殺した音が2つ聞こえた。押し殺しても、《《2つある》》と分かる。
階下で、フィーネが待っていた。
「4人のうち、2人はどこだ」
「1人は裏で眠らせましたわ」
「もう1人は」
「北へ走りましたわ」
北。
南街区から北へ走って着くところは、1つしかない。
「追ったか」
「いいえ。走らせた方が早いので」




