第46話 炭の線が3本
早馬というのは、馬が早いのではない。宿場ごとに馬を替えるから早いのだ。
替えの手配は、フィーネが半日で通した。懐刀の一族の名は、宿場役人には出さない。出したのは大学の印だけだった。それで足りた。
3日で王都に入る。
◆
1日目の夕方、雨に降られた。
街道の脇の樫の下で、3人で立って待った。フィーネは黒い髪から水を絞って、また束ね直した。束ねる手元を、見もしない。
シャルは、木の幹に背を預けて立っていた。座らない。座る場所を探しもしない。
「わたし、南街区の市の裏にいたことがありますの」
フィーネが、髪を束ねる指を止めずに言った。誰に向けたのでもない声だった。
「朝だけ、パンを焼く店の匂いが通りまで来るんです。窓を閉めても入ってきました」
シャルが、幹から背を離した。フィーネの顔を、初めてまともに見た。
「……角の、店ですか」
声が、いつもより早かった。
「ええ。わたしは向かいの、鍛冶屋の子ということになっていましたの」
フィーネは束ね終えた髪を、肩の後ろへ払った。
「そういうことになっていただけですわ」
雨が止んだ。俺たちは馬に戻った。
◆
2日目の夜、宿場で、フィーネが俺の隣に座った。
木の卓に、スープの器が2つ。塩が薄い。ミレイアの塩に慣れると、街道の飯は湯にしか思えない。
「替え馬の代金、大学の印で落としましたけれど。戻ったら事務方に詰められるのは、わたしですわ」
「……なら、俺も一緒に詰められてやる」
「宰相を先に押さえていらしたら、馬は1頭で済みましたのに」
俺は器を置いた。
「その話か」
「その話ですわ。王国の膿を潰してほしいとは言いました。順番までは頼んでいません。頼んでいないのに、あなたは宰相を先にする方が正しいと分かっていて——分かっていましたよね?」
「あぁ。順番としちゃ、宰相が先だ」
「なら、どうして」
フィーネは卓に肘をついてから、行儀の悪さに気づいたように引っ込めた。
「家の者に、何と書けばいいんですか」
「書かなきゃいいだろう」
「書くのが仕事です。宰相を後に回した、とだけ書いたら、あなたが順番を間違えたことになります。間違えてないのに。間違えてない人のことを、わたしが——」
フィーネは、そこで器を持ち上げた。飲まずに、また置いた。
「……事務方のことを言ってたんでした。馬の代金です」
俺は、冷めかけた器の縁を、指で一度なぞった。
「あの娘は、5年ぶん働いた。11人殺して、まだひとつも返してもらってねえ」
フィーネは、スープを飲んで、器の底を見たまま言った。
「……あの子が、若い娘だから、ではなくて?」
「なんだ、それは?」
「いえ」
器を置いた音が、卓の上でやけに大きく響いた。
「今のは、書きませんわ」
フィーネは立って、先に2階へ上がっていった。器の底に、豆が3粒残っていた。
◆
3日目の午後、王都リグレアの南門をくぐった。
半年ぶりだった。門番の顔が変わっていた。石畳の継ぎ目に生えていた草が、刈られていた。南街区は、変わっていなかった。
道が細い。庇と庇が上でくっついて、昼でも足元が暗い。溝の水が動いていない。焼いた小麦の匂いと、その下に、動かない水の匂いがある。人の声は多いが、大きくない。この街区の人間は、大声を出すと損をすることを知っている。
シャルが、路地の3本目で足を止めた。
「あの角の、2階です」
「見張り4人だな」
「はい。今は……」
彼女の声が、途切れた。
「どうした?」
「2人しか、見えません」
俺は庇の下から、その建物を見上げた。
窓が3つ。真ん中の窓だけ、板が打ってある。《《打ちたて》》だ。木の色が周りと違う。釘の頭がまだ光っている。
「印は、どこに出る?」
「その、下の壁です」
娘が、壁を見たまま、動かなくなった。
壁に、印があった。炭で引いた、短い線が3本。
「……7日おきです」
シャルの声が、初めて震えていた。
「前に出たのは、4日前です」




