第45話 順番を変える
シャルは、床に座ったまま話した。
俺は椅子を持ってこさせなかった。座らされることに慣れていない娘だ。膝を抱えて話す方が、口が動く。リィナは扉の内側に立って、剣の柄に手を掛けたまま動かなかった。
「母は、南街区の宿にいます。見張りが4人で、交替は朝と夕の2回です。わたしが7日おきに顔を出して、生きているのを確かめさせてもらいます」
娘は、息を継がずに続けた。
「顔を出すだけです。戸口から。触れてはいけません。母はわたしを見ると立とうとするので、わたしが、手で——」
膝を抱えていた手が、そこで本当に少し浮いた。座っていて、と押しとどめる形だった。浮いたまま、手は膝へ戻った。
「5年前からです」
「確かめさせてもらう、か」
「母は、痩せました」
訊いたことの答えではなかった。シャルは、それに気づいた様子もなく続けた。
「その5年で、10人……」
指が動いた。数えている指ではない。数え終わっているのに、もう一度折り直している指だ。
「11人です。商人が3人、代官が2人、女が1人。あとは、同じ仕事の者です。使えなくなった者は、始末します。そういう決まりで——決まりというか、そういうものです」
俺は、その一言をすぐには流さなかった。使えなくなった駒を、次の駒に片付けさせる。そうすれば手も汚れず、次の駒に自分の将来も見せられる。俺はこの手口を知っている。
「あんたに命じたのは、誰だ」
「知りません。名は、一度も」
シャルは、訊かれる前に先を話した。
「宿の壁に、印が出ます。夜のうちに——朝です。朝に見つけます。出るのは、たぶん夜です。印を見たら、南街区の金貸しへ行って、紙を渡されます。名と場所だけです。読んだら、その場で燃やします。燃やし終えるまで、金貸しが見ています」
「あんたが会うのは、そこまでか」
娘の口が、開いたまま止まった。膝を抱えた腕に、力が入った。
「……一度だけ、上の者が来ました。匂いが」
「匂い」
「香を焚いておられました。宿の廊下に、3日残るような」
俺は立ち上がった。
◇
——扉が開いて、剣の柄に手を掛けたままのわたしは、その夜初めて、ゼノ様の顔をまともに見た気がしました。
いつもと同じ顔です。眉も、口元も動いていません。ただ、廊下の火が、ゼノ様が通り過ぎるあいだだけ、いっせいに小さくなりました。
わたしは以前にも一度、これを聞いています。王宮の西棟でした。あのときわたしは、その場にいませんでした。
今日は、いました。
火は、消えたのではありません。消える寸前まで細って、それから元に戻ったのです。まるで、この廊下じゅうの熱が、ひととき別の場所へ吸い上げられたように。
エリシアは、まだ起きていた。
机に紙を広げて、対抗戦の割り当てを写しているところだった。俺とシャルを見て、それから床の土の足跡を見て、彼女は手を止めた。
「……ゼノ様」
「ダリオンだ」
エリシアは羽根ペンを置こうとして、置き損ねた。羽根ペンは机の端から床へ転がった。エリシアはそれを目で追っただけで、拾わなかった。
「驚かねえのか?」
「驚いております。驚いて——あの方は、40年で一度も、ご自分の手を」
「今回も出してねえ。使ったのは、この娘の母親だ」
エリシアは、シャルを見た。
シャルは目を合わせなかった。合わせないというより、王族の顔を見てはいけないと躾けられた者の目の伏せ方だった。
「お名前は」
「シャルです」
「歳は」
「19です」
「わたくしより1つ上でございますね」
エリシアはそう言って、床に膝をついた。シャルの目の高さに合わせて。
シャルが、初めて顔を上げた。
「ゼノ様。順番を、申し上げます」
エリシアは立ち上がって言った。
「まずダリオン閣下を押さえます。命令の出所が消えれば、見張りは母君に手を出す理由を失います。王都まで早馬で3日。閣下の身柄まで、早くて7日」
「その7日で、こいつが顔を見せに行く日は来るか?」
エリシアが、口を閉じた。シャルが答えた。
「5日後です」
「その日にわたしが行かなければ、母は」
「分かった。順番を変える」
エリシアが、俺を見た。
「それは——遠回りでございます。宰相を先に押さえれば、確実で」
「知ってる。だが、その順番だと、この娘は母親の死体を確かめに行くことになる」
エリシアは、そこで止まった。床のシャルを見た。土のついた素足を見て、それから、自分が写しかけていた紙を見た。
宰相を先に潰すのが正しい。俺の18年も、前世の三界も、全部その順番で回してきた。頭を潰せば手足は止まる。手足から潰す者は二流だ。
「今夜、発つ」
「……承知いたしました」
返事が早すぎた。エリシアは床の羽根ペンを拾って、机に戻して、また落とした。
「眠いなら寝てろ。支度はフィーネにやらせる」
「眠くございません」
エリシアは、それきり羽根ペンを拾わなかった。
「リィナは残れ。この大学に、エリシアと」
「参ります」
扉の内側から、声が返ってきた。
「残れ。前と同じ意味じゃねえ」
扉の内側で、鞘が石の壁に当たる音がした。
「この者が窓から入るのを、わたしは聞き逃しました。ですから、今度は——」
「エリシアを任せられるのは、あんただけだ。今回は、待たせる。……頼む」
リィナは、すぐには返事をしなかった。
柄に掛けていた手が、ようやく離れた。その手を、一度、腰の帯の上で握り直した。
「……残ります」
それから、踵を返した。
「聞き逃したのは、今夜が初めてです」
背中を向けたまま、それだけ言った。
「フィーネを叩き起こしてまいります」
扉が閉まった。閉まる音は、いつもより静かだった。
シャルが、床から俺を見上げていた。口が動いた。音は出なかった。
「礼はやめとけ」
「……」
「まだ、何もしてねえ」




