第44話 奇遇だな
掛け金は、内側から指で押し上げられていた。この部屋には昼のうちから誰かが入っていて、帰るときに窓を開けられるようにしておいたということだ。
俺は動かなかった。動けば、相手は入るのをやめる。
四半刻ほど、樋の音を聞いていた。
47滴目で、窓が開いた。
風は入ってこなかった。開いた分だけ、外の冷気が床を這ってきた。石の冷たさが、素足の踵に届く。
人が入ってきた。
音がしない。衣擦れも、着地の音も、呼吸も無い。3階だ。壁を登ってきたことになる。
そいつは床に降りて、まっすぐベッドへ来た。迷いがひとつも無い。昼のうちに、この部屋の家具の位置を全部覚えている者の歩き方だ。
枕元で止まった。
腕が上がる気配。
俺は起きた。
刃は喉の3寸手前で止まった。止めたのは相手ではない。《《俺の指だ》》。刃の腹を、親指と人差し指で挟んでいる。
「昼にも来たな。窓の掛け金を上げたのは、あんただ」
返事は無かった。
代わりに、左手が動いた。2本目だ。今度は脇腹を狙ってくる。俺は身体をずらさなかった。その必要がない。刃は肋に当たって、そこで止まった。
布が裂ける音がした。皮膚は裂けなかった。
「硬えだろう」
「……はい」
初めて声が出た。小さい。押し殺した声だ。声を出さない訓練を受けた者の、喉の使い方だ。
「なら次だ。3本目は」
「腿に」
「言うのか」
「訊かれましたので」
3本目が来た。
腿に当たって、折れた。
俺は火を1つ、頭の上に浮かべた。
部屋が明るくなった。
娘だった。
黒い髪を、耳の高さで短く切り揃えている。切り口が真横に一直線だ。自分で切ったのではない。誰かが、掴まれないためだけに切っている。前髪が汗で額に貼りついていた。
身体は薄い。胸も肩も薄いのに、脹脛だけが張っている。腿ではなく脹脛だ。走る脚ではなく、登る脚だった。前腕も細いが、指の付け根の内側だけが厚い。庇の縁を掴んで体重を支える指だ。
確かめながら動くのでも、夢中で動くのでもない。決めた通りに動いて、通らなければ次へ行く。稽古ではなく、実地で身につけた手順の踏み方だった。
その手が、4本目を抜いた。
「もう無えだろう」
「あります」
「何本だ」
「7本です」
「律儀だな」
◇
——わたしは、ゼノ様の部屋の扉の外にいました。
音が一切しませんでした。部屋の前は、わたしの持ち場です。20年、扉の外で気配を読んで生きてきました。それが、聞こえませんでした。
聞こえたのは、鉄が折れる音だけです。3つ。
扉を開けたとき、床に短刀が4本。うち3本が折れています。3本とも、刃の途中から折れていました。人の身体に当たって折れる刃を、わたしは見たことがありません。
ゼノ様は、ベッドの上で身を起こしただけでいらっしゃいました。
わたしの手は、剣の柄に届いていませんでした。扉の把手を握ったまま、握っていることを忘れていました。
「リィナ、下がってろ」
「下がりません」
リィナは扉を背中で閉めて、内側に残った。今度は、剣の柄に手を掛けていた。
「……7本目まで付き合う」
娘は、5本目で床を蹴った。天井へ跳んだ。梁を蹴って、上から落ちてくる。刺すのではなく、体重を全部乗せて押し込む型だ。喉を狙っていた。
その型は、俺の知っているものだった。
この夏、街道でエリシアを囲んだ12人のうちの1人が、同じ落ち方をした。
「なるほどな」
俺は掌を上げた。
1枚。2枚。
影が、床から立ち上がった。
影糸。
娘は空中で止まった。糸が四肢に絡んで、そのまま宙に吊られている。
暴れなかった。暴れても無駄だと、一瞬で判断していた。
「6本目は」
俺は訊いた。
「口の中です」
「毒か」
娘は、顎を引いた。
「噛むな!」
「……」
「噛んだら、あんたの雇い主が誰か分からなくなる」
娘の目が、初めて動いた。
「そうなったら、俺は王都の宰相府を端から潰す。宰相の一族から始めて、屋敷の使用人、出入りの商人、その家族。全部やれば、その中に必ず正解が入る」
俺は火を、彼女の顔の高さまで下ろした。
「噛め」
娘は、噛まなかった。
代わりに、口を開けて、舌の下の小さな包みを吐き出した。糸の上から落ちて、床で転がった。
「なぜ吐いた」
「……関係のない者が、死にますので」
「あんたは人殺しだろう」
「はい」
「なら、なぜ気にする?」
娘は答えなかった。
俺は影糸を緩めて、彼女を床に下ろした。膝が抜けて、そこに座り込んだ。土のついた素足が、絨毯の上に2つ並んだ。
「名前は」
「シャル」
「家名は」
「ありません」
俺は少し、笑った。
「奇遇だな」
「なぜ、殺しに来た?」
娘は、床を見た。
それから、顔を上げないまま言った。
「母が、いるので」




