第43話 掛け金
借りというものを、俺はこれまで一度も作ったことがない。作れば返すことになって、それは骨が折れる。
だからこの先に起きたことは、俺にとって厄介事の記録ということになる。
◇
——獣皮の写しが宰相府に届いたのは、雨の朝でございました。
わたくしはそれを、いつもの通り、朝の書類の3番目に置いて読みました。1番目が穀物の帳、2番目が国境の警備の割り当て。大学からの報せがこの3番目より上に来たことは、40年で一度もございません。
代表の名が5つ、並んでおりました。上から順に、家名、領、階位。
4人目まで読んで、わたくしは指を止めました。息子の名が、ございませんでした。
5人目の行には、家名の代わりに横線が1本引いてございます。書き損じではございません。家名の無い者はそう書けと決めたのは、20年前のわたくしでございます。
その線の右に、ゼノ、とございました。
わたくしは窓を開けようとして、手を止めました。この部屋の窓は、あの夜から一度も開いておりません。
雨の音が、硝子の向こうで続いておりました。
◆
大学の朝は、王宮より遅い。
俺は中庭の石段に座って、湯気の立つ器を膝に載せていた。豆のスープだ。塩が強い。ミレイアの厨房は塩を惜しまない。11本の塔から人が出てきて、それぞれの棟へ散っていく。鐘は鳴らない。この大学は時刻を鐘で報せず、塔の上の光でやる。薄い黄が朝、白が昼、青が夕だ。
隣で、ミルカが同じ器を両手で抱えていた。熱いものを持つのが下手で、指の腹をすぐ赤くする。書き取りばかりしている娘の手だ。紙をめくる指だけが厚い。
「ゼノ。対抗戦は、冬です」
「ああ。……まだ3月も先か?」
「あと3月しかありません」
「長えな」
「短いです」
ミルカは言い切って、それから器の縁を見た。
◆
修練場では、リィナが木剣を振っていた。
上段から真下へ。振り下ろしたら退かず、その位置から次を出す。20年、同じ型だけを振り続けた背中だ。濃い栗色の髪を首の後ろで括って、汗で束になったのが肩甲骨のあたりに貼りついている。右の肩甲骨の下だけが盛り上がる背だ。
その前に、ポーラが立っていた。
「もう1回、お願いします」
「腰が高い」
「はい」
ポーラは受けて、木剣を落とした。手首が返っていない。火魔法の使い手で、剣は先月からだ。掌の皮が3箇所むけて、その上から布を巻いている。布が汗を吸って、黒くなっていた。
俺は木剣を1本拾って、重さを確かめた。乾いた樫だ。持ち手のところだけ、脂で色が変わっている。何百回も握られた木は、握った者の指の形に光る。
「ゼノ」
リィナは振り返りながら、もう次の1人の背中を押していた。その学生が、木剣を構えたまま俺の前でたたらを踏んだ。
「そこに立っていてください。この者たち、わたしに打たれるのには慣れてしまって」
「俺は剣が使えねえ」
「知っています」
リィナは、それ以上は何も足さなかった。次の1人の襟を掴んで、列の頭に並べ直していた。
その日は、5人を相手にした。剣は使わない。俺は立っているだけで、当たる直前に闇魔法で足元の影を1寸ずらす。それだけで人間は転ぶ。
5人目で、ポーラが泣きながら立ち上がった。
「まだ」
「まだ、じゃねえ。手が持たねえ」
「持つ。持つってば。だいたい、あっちは腰が高いしか言わないし、あんたは立ってるだけだし、転んでるのわたしだけじゃない。泣いてるのは手が痛いからで、やめたいからじゃないから」
俺は彼女の右手を取って、布を剥がした。皮の下が赤い。血ではなく、漿液だ。剣を握るより先に、痛みの止め方を覚えていない。
1枚。掌に陣が1枚、音もなく浮かんだ。
治癒。
赤みが引いた。ポーラは自分の掌を見ていた。
「……ありがと」
「明日も同じことになるぞ」
「なる」
「なら、やめとけ」
「やめない」
ポーラは治った掌で、濡れた頬を乱暴に擦ってから、また列の後ろへ並びに行った。
俺は桶の水に手を入れた。冷やすだけなら、魔法は要らない。次に回ってきたときに、その手を取って、水に沈めた。
「冷たっ」
「赤みは、水が早い」
「治したじゃん」
「治しても、熱は残る」
娘は手を沈めたまま下を向いていた。耳が赤かった。
列の脇で、リィナが自分の手を見ていた。
右の親指の付け根に、新しい胼胝ができている。ひと月、20人の前で木刀を振ってきた手だ。その上を、左の親指がなぞっていた。なぞってから、木剣を握り直した。
新しい方は、まだ治していない。
◆
夕方、フィーネが階段の下に立っていた。
黒い髪を一つに束ねて、腕を組んで、片方の肩を壁につけている。いつも壁のある場所に立つ。背中を空けない癖だ。
「写しが、今朝宰相府に届きましたわ」
「早えな」
「早馬で3日と、言いましたでしょう?」
フィーネは壁から肩を離した。
「あの方は、今日1日、お部屋から出ていらっしゃいませんの」
夜。俺は灯を落として、ベッドに横になっていた。
雨は上がっていた。窓の外で、樋の水が石畳に落ちる音だけが続いている。一滴ずつ、間が空いていく。乾いていく音だ。
その音の中に、別の音が混ざった。
木と鉄が擦れる、ごく短い音。
俺は窓を見た。
掛け金が、外れていた。
《《内側から》》外れていた。




