↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/300

第43話 掛け金

借りというものを、俺はこれまで一度も作ったことがない。作れば返すことになって、それは骨が折れる。


だからこの先に起きたことは、俺にとって厄介事の記録ということになる。


    ◇


——獣皮(じゅうひ)の写しが宰相府に届いたのは、雨の朝でございました。


わたくしはそれを、いつもの通り、朝の書類の3番目に置いて読みました。1番目が穀物の帳、2番目が国境の警備の割り当て。大学からの報せがこの3番目より上に来たことは、40年で一度もございません。


代表の名が5つ、並んでおりました。上から順に、家名、領、階位。


4人目まで読んで、わたくしは指を止めました。息子の名が、ございませんでした。


5人目の行には、家名の代わりに横線が1本引いてございます。書き損じではございません。家名の無い者はそう書けと決めたのは、20年前のわたくしでございます。


その線の右に、ゼノ、とございました。


わたくしは窓を開けようとして、手を止めました。この部屋の窓は、あの夜から一度も開いておりません。


雨の音が、硝子の向こうで続いておりました。


    ◆


大学の朝は、王宮より遅い。


俺は中庭の石段に座って、湯気の立つ器を膝に載せていた。豆のスープだ。塩が強い。ミレイアの厨房は塩を惜しまない。11本の塔から人が出てきて、それぞれの棟へ散っていく。鐘は鳴らない。この大学は時刻を鐘で報せず、塔の上の光でやる。薄い黄が朝、白が昼、青が夕だ。


隣で、ミルカが同じ器を両手で抱えていた。熱いものを持つのが下手で、指の腹をすぐ赤くする。書き取りばかりしている娘の手だ。紙をめくる指だけが厚い。


「ゼノ。対抗戦は、冬です」


「ああ。……まだ3月も先か?」


「あと3月しかありません」


「長えな」


「短いです」


ミルカは言い切って、それから器の縁を見た。


    ◆


修練場では、リィナが木剣を振っていた。


上段から真下へ。振り下ろしたら退かず、その位置から次を出す。20年、同じ型だけを振り続けた背中だ。濃い栗色の髪を首の後ろで括って、汗で束になったのが肩甲骨のあたりに貼りついている。右の肩甲骨の下だけが盛り上がる背だ。


その前に、ポーラが立っていた。


「もう1回、お願いします」


「腰が高い」


「はい」


ポーラは受けて、木剣を落とした。手首が返っていない。火魔法の使い手で、剣は先月からだ。掌の皮が3箇所むけて、その上から布を巻いている。布が汗を吸って、黒くなっていた。


俺は木剣を1本拾って、重さを確かめた。乾いた樫だ。持ち手のところだけ、脂で色が変わっている。何百回も握られた木は、握った者の指の形に光る。


「ゼノ」


リィナは振り返りながら、もう次の1人の背中を押していた。その学生が、木剣を構えたまま俺の前でたたらを踏んだ。


「そこに立っていてください。この者たち、わたしに打たれるのには慣れてしまって」


「俺は剣が使えねえ」


「知っています」


リィナは、それ以上は何も足さなかった。次の1人の襟を掴んで、列の頭に並べ直していた。


その日は、5人を相手にした。剣は使わない。俺は立っているだけで、当たる直前に闇魔法で足元の影を1寸ずらす。それだけで人間は転ぶ。


5人目で、ポーラが泣きながら立ち上がった。


「まだ」


「まだ、じゃねえ。手が持たねえ」


「持つ。持つってば。だいたい、あっちは腰が高いしか言わないし、あんたは立ってるだけだし、転んでるのわたしだけじゃない。泣いてるのは手が痛いからで、やめたいからじゃないから」


俺は彼女の右手を取って、布を剥がした。皮の下が赤い。血ではなく、漿液(しょうえき)だ。剣を握るより先に、痛みの止め方を覚えていない。


1枚。掌に陣が1枚、音もなく浮かんだ。


治癒(ヒール)。


赤みが引いた。ポーラは自分の掌を見ていた。


「……ありがと」


「明日も同じことになるぞ」


「なる」


「なら、やめとけ」


「やめない」


ポーラは治った掌で、濡れた頬を乱暴に擦ってから、また列の後ろへ並びに行った。


俺は桶の水に手を入れた。冷やすだけなら、魔法は要らない。次に回ってきたときに、その手を取って、水に沈めた。


「冷たっ」


「赤みは、水が早い」


「治したじゃん」


「治しても、熱は残る」


娘は手を沈めたまま下を向いていた。耳が赤かった。


列の脇で、リィナが自分の手を見ていた。


右の親指の付け根に、新しい胼胝ができている。ひと月、20人の前で木刀を振ってきた手だ。その上を、左の親指がなぞっていた。なぞってから、木剣を握り直した。


新しい方は、まだ治していない。


    ◆


夕方、フィーネが階段の下に立っていた。


黒い髪を一つに束ねて、腕を組んで、片方の肩を壁につけている。いつも壁のある場所に立つ。背中を空けない癖だ。


「写しが、今朝宰相府に届きましたわ」


「早えな」


「早馬で3日と、言いましたでしょう?」


フィーネは壁から肩を離した。


「あの方は、今日1日、お部屋から出ていらっしゃいませんの」


夜。俺は灯を落として、ベッドに横になっていた。


雨は上がっていた。窓の外で、樋の水が石畳に落ちる音だけが続いている。一滴ずつ、間が空いていく。乾いていく音だ。


その音の中に、別の音が混ざった。


木と鉄が擦れる、ごく短い音。


俺は窓を見た。


掛(か)け金が、外れていた。


《《内側から》》外れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。