第42話 横線が1本
その日の夕方、食堂の椀が2つになった。いつも通りだ。ポーラは鍋を抱えて、腕まくりをして、肘まで濡らしている。試合を見に来なかった娘が、試合の話を一言もしないまま、俺の前に椀を置いた。
「勝ったぞ」
「知ってる。みんな腹減らして戻ってきたから」
ポーラは椀を置いた手を引っ込めずに、俺の顔を覗き込んだ。左の頬、右の頬と、順に見た。
「……殴られてない」
「言っただろう」
「言ったのは知ってる」
「朝のも食った。うまかった」
ポーラは、鍋を抱え直した。何か言いかけて、言わずに鍋の方へ戻っていった。戻る途中で、食堂の入口を見て足を止めた。背の高い娘が、そこに立っていた。ユーリカだ。俺と目が合うと、娘は椀を取らずに踵を返した。
「……あの子、昼から何も食べてないんだけど」
ポーラが、鍋を抱えたまま言った。
「あんた、何したの?」
「勝った」
「それだけで、ご飯抜く子はいないよ」
俺は入口の方を見た。ユーリカの椀が、取られないまま机の端に残っていた。
向かいの席が、埋まっていた。トバイアスが1つ。その隣に2つ。木刀を膝に置いていた連中のうちの2人だ。名前は覚えていない。
「ゼノさん。僕、3年ここにいて、実技を初めて見ました」
「そうだったな」
「それで、あの」
男は羽根ペンを3本、机に並べて、1本ずつ向きを揃えた。
「初級でしたよね」
「初級だ」
「ヴィント様は上級でした」
「そうだ」
「僕は、枚数が全部だと思っていました。4000回組んで、上級が回るようになって、次は特級で、その次は……」
隣の1人が、椀から顔を上げた。
「トバイアスさん、また4000回の話」
「またって何だよ。僕は」
「空き地じゃ、5人に入れなかったくせに」
「それは剣の話だろ!」
トバイアスの声が、食堂の奥まで響いた。鍋の向こうからポーラが顔を出して、すぐ引っ込めた。トバイアスは耳まで赤くなって、揃えた羽根ペンの向きを、もう一度揃え直した。
「……分かりません。何が全部なのか。でも、特級の練習はやめません」
「それでいい」
俺はスープを飲んだ。
長机の端に、ミルカが立っていた。試合のあいだ膝に置いていた獣皮を、まだ白いまま抱えている。
「使ったのは1枚だ。初級。書いとけ」
娘はその場で羽根ペンを取って、立ったまま書き始めた。
そこへ、リィナが来た。
囲いの稽古から直に来たらしい。手に布を持っている。俺の隣に立って、返事を待たずに右腕を取った。肘から手首まで、指で押していった。
「腫れておりません」
「言っただろう」
「言葉では、腫れは引きません」
ミルカが、その手元を覗き込んだ。
「その腕は初級を1枚通しただけです。残りは魔力量で押しています。押した側に負荷は残りません。記録に要りますので、動かさないでください」
「記録より、手当てです」
「怪我をしていないのに、手当てですか」
「……しておりません」
「では、記録が先です」
俺の右腕は、2人に左右から持たれていた。
鍋の陰から、ポーラが顔を出した。
「その人、頬は無事だから。わたしが見た。左も右も」
「顔の話は、しておりません」
「してないのに殴られた顔で戻ってきたら、そっちの方が問題でしょ」
食堂の入口に、エリシアが立っていた。いつからいたのかは分からない。侍女は連れていない。
「勝った者の名は、3日後には王都に届きます」
一息だった。
「ヴァリス王国の代表として、届きます。腕と、術式と、お顔の話は、それまでに済ませていただけますでしょうか」
「……済ませるって、何を」
「順番でございます」
俺の右腕は、まだ持たれたままだった。
「腹減った」
4人が、同時に黙った。ポーラが鍋を置いた。置き方が乱暴で、スープが縁から跳ねた。
夜、書庫の地下1階に降りた。灯りが2つ灯っている。長机の前に、灰色の前掛けの娘が座っていた。フィーネは立ち上がって、深く頭を下げた。角度はいつもと同じだった。
「勝ったそうですわね。おめでとう」
「見てねえだろ」
「書庫の当番でした。初級だったと聞いていますわ」
娘は、机の上の紙を1枚、こちらへ滑らせた。家へ送る文だった。まだ途中だ。読める字で、こう書いてあった。
——四重を出さず。相手を辱めず。参ったと言わせるまで待った。
「待ったのを、見てたのか?」
「見た者から聞きました。あの間が、いちばん長かったそうで」
相手を辱めず、の1行を、俺は目でもう一度なぞった。砂の上で俺が最後に何と言ったのかは、そこに無かった。
直させはしなかった。俺は椅子を引いて座った。
「……ヴィント・ダリオンは、どうしていましたか」
フィーネが訊いた。紙の端を指で押さえたまま、目は紙の方を向いていた。
「木剣を置いて帰った」
「そうですか」
それきり、フィーネは紙の端から指を離さなかった。
「……家への文には、要らないことでした。忘れてください」
「ヴィントの親父は、まだ王都だろう」
フィーネは、羽根ペンを置いた。
「大学から王都まで、早馬で3日です。ですが、この街には五大国の人間が集まっています。荷馬車の御者にも、宿の主にも、国へ帰る学生にもです。——早馬を出さなくても、同じ3日で届きますの」
「早えな」
「学内選抜の結果は、毎年そうやって流れます」
俺は、斜面の一番上を思い出していた。試合が終わったあと、逆の方向へ走っていった者がいた。門の方へ。急ぐ用のある者は、あの場にいないはずだった。
「あの男は、息子が負けたと聞いて、何をする?」
娘は、少し間を置いた。目が動いた。
「知りません。あの者が自分で手を下したことは、40年で一度もありません。息子には——」
声が、硬くなった。
「息子には、たぶん、何も言いません。何も」
紙の端を押さえていた指の、爪の先が白くなっていた。俺は書庫を出た。
◆
寮の扉の前に、エリシアが立っていた。傘は持っていない。今夜は降っていない。侍女も連れていない。
「入るか?」
エリシアは、いつも扉の前で止まる。王宮の東棟でも、この寮でも、一度も敷居をまたがなかった。
またいだ。
入ってから、口が動いた。音は出なかった。もう一度動いて、今度は出た。
「対抗戦には、ヴァリス王国の名で出ていただくことになります。勝てばこの国の威光に、負ければ——」
「聞いた」
「……どなたから」
訊いてから、エリシアは首を振った。答えは要らない、という振り方だった。廊下の魔石の灯りが、その横顔を半分だけ照らしていた。胸の前で組んだ指に、力が入った。
「嫌なのです」
飾りの無い声だった。
「わたくし、嫌なのです。あの旗の下に立った者が、王宮でどう使われるか、ずっと見てまいりました。兄も、わたくしも、そうでした。それを、ゼノ様にまで。大学へお入れしたのもわたくしで、その上に国の名まで。断る手立ても、わたくしには一つも——」
そこで、息が続かなくなった。
「背負ってやる」
エリシアの顔が止まって、遅れて肩が跳ねた。
「どうして。どうして、そう簡単に」
「あんたの旗じゃねえ。俺が使う」
「そういうことを申し上げているのでは——」
声が、そこで割れた。エリシアは口元を手で押さえた。手の上で、目だけがこちらを見ていた。手の下で、唇がもう一度動いた。何と言ったのかは、聞こえなかった。
「……失礼を、いたしました」
娘は頭を下げて、敷居をまたいで出ていった。入ってきたときより、ずっと速かった。扉が、半分開いたまま残った。
俺はそれを閉めずに、部屋を出た。
◆
階段を下りながら、この半年に俺の前へ立った人間を数えていた。岩場の10人。街道の12人。製粉所の28人。全員、誰かに金で集められて、誰かの名前を知らないまま来た。
宰相は一度も、自分の足で俺の前に立っていない。
外へ出ると、雨が上がったあとの匂いがした。濡れた石と、土と、遠くの水。塔が11本、黒い影になって並んでいる。そのどれかの下で、今日も誰かが陣を組んでいるのだろう。トバイアスは特級を試している。ユーリカは、たぶん別の組み方を探している。ヴィントは——
あの男の父親と同じ言葉を、俺は同じ間で置いた。そこまで考えて、腹の底が擦れた。俺は考えるのをやめた。
俺は掌を開いた。
1枚。2枚。3枚。4枚。
5枚目は、今日も組めない。
半年前、俺は王都の門をくぐるとき、書庫を覗いて用が済んだら出て行くつもりでいた。いま、俺はこの大学の代表になっている。
家名の無い行に、横線を1本引いて。
——この1本の横線を、王都で最初に読む男がどんな顔をするのか。それを俺が知るのは、もう少し先のことだった。




