第41話 木の剣
木剣だった。魔法の大学の決勝で、上級に届く男が、木の剣を持って立っている。斜面が、静かになっていた。
「ヴィント。あんた、それで何をする?」
「殴る。お前が陣を組む前に」
(——ああ)
俺は斜面の中ほどを見上げた。木刀を膝に置いた20人が、そこに座っている。ひと月前まで、あの空き地は石が転がっているだけの場所だった。リィナが地面を均して、俺が石を運んで、握り方から教え始めた。3日目に6人になり、5日目に11人になり、20人を越えたところで、リィナが上手い順に5人選んだ。その囲いを、ヴィントは一度も覗きに来ていない。
覗きに来ていないのに、答えだけを持ってきた。
「誰に習った?」
「習っておらん。お前の女が空き地でやっていることを、この大学の全員が知っている。わたしは行かなかった。行けば、教わったことになる」
「意地を張ったな」
「張っていない!」
斜面まで届く声だった。ヴィントは自分の声に顔をしかめて、木剣を上げた。
「……考えただけだ。自分で」
◇
——空き地の20人と並んで座っていたわたしは、そこで背筋が冷えました。そのあとで、腹が立ちました。
ヴィント様は、あの空き地に一度も来られませんでした。わたしがひと月かけて20人に渡してきたものを、一目も見ないまま、木の剣にして持ってこられた。隣の1人が「うちのやり方だ」と呟きました。わたしは、そうだと言いかけて、口を閉じました。うちのやり方を、うちの誰よりも先に砂の上へ持ってきたのは、うちの者ではございませんでした。
「始め」
速かった。ヴィントは、走りながら組めない。ユーリカとは違う。だから組むのをやめて、走る方だけを選んだ。木剣が来た。俺の胸の高さだ。当たっても死なない位置に振っている。
殺す気が無い。
(——そうか)
これは殺し合いではないと、向こうは最初から知っている。俺の方が知らなかった。
俺は半歩だけ横へずれた。木剣が空を切る。ヴィントは止まらずに踏み替えて、2撃目を振った。3撃目。4撃目。
全部いなした。
砂が鳴る音だけが続いた。斜面から声が出ない。
7撃目で、呼吸が変わった。そこで初めて、掌に陣が浮かんだ。
1枚。2枚。3枚。
「炎牙!」
木剣を振り抜いた右腕の内側から、赤が走った。上級だ。この国の基準では本物の部類に入る。俺は左手を上げた。
1枚。
影糸。
黒が1本、赤の腹を横から払った。炎が砂に落ちて、そこで消えた。焦げた匂いが、少し遅れて届いた。
俺は自分の掌を見た。1枚だ。王宮の砂の上でガイル・ドランの剣をいなしていたときと、同じ数だった。
「——ふざけるな」
ヴィントの声が、初めて崩れた。
「初級だと」
「足りた」
「わたしの上級が、お前の初級に——」
「綺麗すぎるんだよ、あんたのは。どこに組み上がるか、先に見える」
「……何を言っている」
「雑に組む奴は、どこに来るか分からねえ。あんたのは、置き場所が読める」
「綺麗に組んで、何が悪い!」
子供が言い返すような声だった。
「そう組めと言われてきた! 崩すな、1枚目から揃えろと、ずっと——」
自分の口を噛んだように、止まった。ヴィントは木剣を一度下ろして、握り直した。
「……もう一度いく」
「いいだろう」
8度、来た。8度とも、俺は1枚のまま返した。
9度目に、ヴィントは木剣を落とした。落としたのではない。指が閉じなかった。ユーリカと同じところまで来ている。組みすぎて、握る側が先に死んだ。
膝が落ちた。
俺は陣を消した。進行役の方を見た。旗は、まだ上がらない。本人が参ったと言わなければ、この試合は終わらない。
ヴィントは、言わない。顎が上がっていない男が、砂に手をついたまま、口を閉じている。
口が開いたのは、俺が進行役へ一歩踏み出したときだった。
「……首席なら」
砂についた指が、砂を掻いた。
「首席なら、父上も、何か……そうか、ではない何かを。一度くらい、よくやったと」
男の口が、勝手に止まった。ヴィントは首を振った。自分の言ったことを払い落とそうとする振り方だった。
「違う。父上が悪いのではない。父上はお忙しい。わたしが、足りなかっただけだ。上級程度で、何か言ってもらえると思ったわたしが——」
「そうか」
ヴィントの顔が、歪んだ。
「……お前まで、それか」
「違う」
続きが出るまでに、ヴィントが二度息を吸った。
「……そういう意味じゃねえ。9度立った奴を、足りねえとは思ってねえ」
ヴィントは顔を上げなかった。砂についた指が、まだ砂を掻いていた。斜面は静かだった。誰も囃していない。
「……参った」
聞こえた者は、たぶん最前列の数人だけだ。俺は進行役の方へ手を上げた。
旗が上がった。斜面が鳴るまでに、十を数えるほどかかった。何が起きたのかが、誰にも見えていなかったからだ。陣は1枚しか出ていない。特級の闇も、4枚の陣も、この砂の上には出ていない。斜面から見えたのは、木剣を持った男が9度走って、9度とも届かなかったという、それだけの絵だ。
木刀を膝に置いた20人だけが、先に立ち上がっていた。あの連中は、詠唱のあいだを埋める稽古をひと月やっている。立ち上がったまま、誰も手を叩かなかった。
俺は自分の掌を開いて、閉じた。殺していない。壊してもいない。あいつは明日も歩くし、明日も陣を組む。口の中に、さっきの一言がまだ残っていた。
それでも決着はついている。
(——なるほどな)
これが、殺すか殺されるか以外の勝ち方らしい。
進行役が読み上げた。
「本学代表、ゼノ」
家名の欄には、横線が1本引いてあった。
ヴィントは、自分で立った。木剣は拾わなかった。進行役の方への一礼だけは、いつもの角度で済ませてから斜面を登っていった。誰も声をかけなかった。
斜面の途中に、ユーリカが立っていた。すれ違うとき、娘が何か言った。ヴィントは止まらなかった。何を言ったのかは、砂の真ん中までは届かなかった。
斜面の一番上で、誰かが1人だけ、逆の方向へ走っていくのが見えた。
門の方だ。
試合はもう終わっている。急ぐ用のある者は、ここにはいないはずだった。




