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第40話 名前で呼ばれた

砂の広場に、人が集まっていた。大学の演習場は、王宮のそれより広い。塔と塔のあいだの窪地を均しただけの場所で、観客席というものが無い。斜面にそのまま座る。そういう作りだ。その斜面が、端から端まで埋まっていた。


「多いな」


俺が言うと、隣でリィナが答えた。


「実技そのものが、久しぶりですので」


「見たことのねえ連中が座ってるぞ」


「街の者だと思います。門が開いています」


俺は斜面を見上げた。学生の頭数より、明らかに多い。大学の実技を街の人間が見に来る理由が、俺には分からなかった。


最前列に、ミルカが座っていた。ハルダーの弟子で、俺の喋ったことを一言一句そのまま書き取る娘だ。畳んだ上着を膝に載せて、その上に獣皮の紙。羽根ペンを3本。斜面は昨日の雨でまだ湿っているのに、紙だけは乾いたところに置いてある。俺と目が合った。頭を下げるでも、手を振るでもない。紙を持ち上げて、こちらへ見せた。白紙だった。


斜面の中ほどに、木刀を膝に置いた連中が固まっていた。数えて20人。リィナの空き地の連中だ。朝の稽古を終えてそのまま来たらしい。汗を拭いてもいない。俺が見ていることに気づいて、そのうちの何人かが背筋を伸ばした。


(……揃って座るのか)


あの空き地は、ひと月前まで石が転がっているだけの場所だった。


進行役は、東の塔の受付にいた痩せた男だった。羽根ペンを持たずに立っているのを、初めて見る。


「3名の申し込みがございました」


男の声は、よく通った。


「1行目に名を記された方が、決勝に進まれます。大学の古い決まりでございます。——ヴィント・ダリオン様」


斜面が鳴った。


「1回戦。ゼノ、ユーリカ」


俺は砂に降りた。反対側から、ユーリカが降りてきた。上着を脱いでいる。下は薄い麻の胴着だけだ。動くための格好をしてきた。


斜面から、声が降ってきた。


「勇者の妹だ」


「メルセアの」


「兄貴も出りゃいいのにな」


ユーリカの足が、止まった。斜面を振り仰いで、声の降ってきたあたりへ怒鳴った。


「兄貴は来ない! 出てるのは、わたしだ!」


斜面が、一瞬だけ静まった。それから、笑い声がいくつか返ってきた。ユーリカは唇を噛んで、前へ向き直った。


「毎日、ああだ」


娘は、俺の方を見ないまま言った。


「あんたは言わなかったな。空き地で、兄貴と同じかと訊いただけだ」


「あんたの兄貴が何級なのか、俺は知らねえ」


「……そういうことを訊いてるんじゃない」


「始め」


ユーリカが先に動いた。


「——旋(せん)」


詠唱が短い。人間界の術者は十を数えるほどかけると聞いていた。ユーリカは、3つ数えるあいだに終わらせた。


掌に陣が浮かぶ。1枚。2枚。3枚。上級だ。この大学で上級に届く者は5人しかいない。そのうち3人は4年生だと、ヴィントが言っていた。ユーリカは、自分を5人目だと言った。


「旋刃(せんじん)!」


風が来た。正面からではない。左右から挟んで、内側へ巻き込む形で来た。逃げる方向を先に塞いでいる。


俺は動かなかった。


刃が肩に当たって、麻の布を裂いた。血は出なかった。


「——なんだ、それ」


ユーリカの声が、掠れた。


「硬すぎるだろ」


「そう言われてもな」


俺は肩の裂け目を見た。


「あの穴で18年、俺はこれより硬いものに毎日噛まれてた」


娘は、下がらなかった。下がる代わりに、2つ目を組み始めた。組みながら踏み込んできた。


これは、俺の見立てになかった。


魔法を使う人間は、組むあいだ足を止める。詠唱に十を数えるほどかけるのだから、止めるしかない。この大学の連中が誰も埋めなかった穴が、そこだ。


ユーリカは、走りながら組んでいる。


(——読み違えてたな)


俺は右手を上げた。掌に陣が浮かぶ。


1枚。


2枚。


    ◇


——2枚目が浮かんだとき、空き地の20人の1人が、わたしの隣で木刀を取り落としました。拾いなさいと言おうとして、わたしは自分の手が膝を掴んでいるのに気づきました。


昨夜、ゼノは「相手を見てからだ」と仰いました。2枚目は、見てから出たものです。あの方が人間相手に1枚を超えるのは、これで3度目です。わたしたちが囲まれたあの岩場と、王宮の砂の上と、今日。


今日の相手は、あの方の頬を殴った娘です。あの跡を、わたしは消させていただけませんでした。


影糸(えいし)。


黒が2本、砂の上を走った。髪ほどの細さの闇だ。1本は娘の前を、もう1本は後ろを通った。どちらも当たっていない。


ユーリカの3枚目が、組み上がる前に崩れた。


娘は膝をついた。つかされたのではない。自分でついた。


「……何をした」


「風の通り道を、2本切った。あんたの陣は、外から風を集めて内側で回してる。集める線を断てば、回すものが無くなる」


「見ただけで分かるのか?」


「1回見た」


ユーリカは、膝の前の砂を見ていた。それから顔を上げた。


「もう1回組んだら、勝てるか?」


「勝てない」


「4回でも」


「勝てない。10回組んでも、俺は10回同じところを切る。今の組み方ではな」


「走りながら組む奴は、俺も初めて見た。そこは切れねえ」


娘は、膝の前の砂を掴んだまま、1枚目を組もうとした。陣が掌の上に半分だけ浮かんで、形になる前に散った。もう一度。今度は浮かびもしなかった。3度目を組もうとした手を、娘は自分の膝に叩きつけた。


「——参った」


声が、途中で裏返った。


進行役が旗を上げるより先に、斜面が鳴った。俺は自分の耳を疑った。


拍手だったからだ。


負けた方に拍手が飛んでいる。人間界に来て半年、俺はこの音を聞いたことがなかった。王宮の砂の上で近衛の副長が膝をついたとき、誰も手を叩かなかった。


「走りながら組んでたぞ」


「あんなの見たことねえ」


「ユーリカだ」


「ユーリカが、あそこまで」


《《勇者の妹》》と言った者は、1人もいなかった。


参った、とユーリカは言った。俺はその一言を、頭の中でもう一度置き直した。前世で俺の前に膝をついた者は、そのまま死ぬか、逃げるかのどちらかだった。参ったと言って立ち上がり、砂を払って歩いて帰る者を、俺は見たことがない。


言えば終わる。言わなければ終わらない。


(……そういう作りか)


ユーリカが立ち上がった。砂は払わなかった。俺の横を通り過ぎるとき、こちらを見なかった。斜面の方で、誰かが娘の名を呼んで手を叩いた。娘はそちらにも顔を向けず、手の甲で、目のあたりを一度だけ擦った。


俺は砂の真ん中に残された。斜面の音が引くのを待って、進行役が次を読み上げた。


「決勝。ゼノ、ヴィント・ダリオン」


反対側の入口に、男が立っていた。ユーリカが、ちょうどその横をすれ違うところだった。


「走れ」


ユーリカが、すれ違いざまに言った。男の方を見もしなかった。


「……言われなくとも」


ユーリカは振り返らなかった。


男の顎が、上がっていない。


その手に、木剣が握られていた。

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