第39話 選抜前夜
昼過ぎから、雨になった。ミレイアは秋の終わりに雨が続くらしい。
塔と塔をつなぐ渡り廊下の角で、エリシアが待っていた。上級生の別棟から、ここへ回る用事は無い。傘は差していない。肩が濡れていた。
「明日、わたくしは見に参りません」
挨拶は無かった。
「わたくしが観覧席におりますと、あれはヴァリス王家の試合になります。明日は大学の選抜で、国のものに——」
そこで、言葉が止まった。エリシアは、濡れた肩の布を指でつまんだ。
「……それを申し上げに来たのでは、ございません。明日が終わりましたら、申し上げます」
「あぁ」
俺は歩き出した。
「今申し上げると——」
背中で、声がした。探して、見つからなかったらしい。
「……今申し上げると、わたくしが、明日を見に来たくなります」
俺は足を止めた。
「終わったら、最初にあんたに話す」
エリシアは、自分の口元に手をやった。頭を下げるのが、いつもより速かった。濡れた肩が、渡り廊下の角で消えた。
雨は、夜になっても止まなかった。11本の塔が、全部灰色に沈んでいた。俺は寮の窓辺で脚を組んでいた。やることは、あの穴の頃と変わらない。息を深く整え、身体の底に溜まっているものを、ゆっくりと循環させる。一晩で増える魔力量は、霧の粒ほどだ。
18年やって、まだ特級だ。
掌を開いた。
1枚。2枚。3枚。4枚。
5枚目は、今日も組めない。天級魔法には、まだ届かない。
だが、腹の底の具合が、半年前とは違った。王宮の東棟で同じことをしていたとき、俺は行き止まりの前に座っていた。書庫は空で、絵は模写で、確かめる方法が無かった。
今は、道の途中に座っている。
空間魔法を使える血筋が、まだどこかに残っている。魔力量は俺が持っている。書き方はそいつが持っている。
どちらか片方では、何も起きない。
扉が鳴った。リィナだった。湯を張った桶を抱えている。
「明日に備えて、お身体を」
俺は上を脱いだ。背中に、絞った布が当たった。あの夜と同じ手つきだった。血を落とすことに慣れている手だ。湯が熱すぎて、肩の骨の下がひりついた。
「明日は、人が死にません」
リィナは、背中を拭きながら言った。俺が何か訊く前だった。
「降参で終わると、受付の方に伺いました。わたしは、そういう日があることを、この歳まで知りませんでした」
「あぁ。半年前なら、俺も出てねえ」
リィナは、15で初任務、17で街道、19で夜盗を20人。20年ぶんの傷を身体に書いて生きてきた。その娘が、いま20人に木刀の持ち方を教えている。
「5人のうち1人が、もう教え始めています。わたしの型と、少し違う型で。……直していません。あの者の身体は、わたしの身体と違いますので」
布が、肩の上で止まった。
「……3年かかったのは、わたしのせいではありませんから」
11日前の空き地の話だった。何のことか思い出すまでに、布がもう一度背中を往復した。
「明日、どれくらい本気を出されますか」
俺は、同じことを、前に一度訊かれている。王宮の東棟だ。あのときはエリシアだった。俺は「1枚だ」と答えて、翌日その通りにした。今度は、答えが出てこなかった。
「分からない。相手を見てからだ」
布は、背中に当たったまま動かなかった。
扉が、また鳴った。返事をする前に開いた。
ポーラだった。布に包んだものを2つ、胸に抱えている。裸の背中と、そこに布を当てているリィナを見て、戸口で足が止まった。
「……あ」
「どうした?」
「どうもしない」
ポーラは入ってきて、机の上に包みを2つ、少し乱暴に置いた。
「今夜の分と、明日の朝の分。試合の前に詰め込んだら動けないでしょ、だから起きてすぐ食べて。冷めても食べられるやつにしたから。塩、きつめ。汗かくと思って」
包みの布越しに、まだ熱が来た。
「明日は、殺し合いではありません」
リィナが言った。俺の背中から布を離さないまま、ポーラの方は見なかった。
「分かってる。……だが、殴られりゃ腹は減る」
俺が言うと、ポーラが鼻を鳴らした。リィナの手が、背中で一度止まった。
「でしたら、そこまでなさらなくとも」
「殴られてたじゃない。あの背の高い子に。顔に跡つけたまま、スープ3杯飲んでったくせに」
布が、俺の肩で強く止まった。
「あれは、ゼノが避けなかっただけです」
「避けなかったら殴られるんでしょ。一緒じゃない」
「一緒ではありません」
「一緒だよ」
ポーラは、机の包みを指で1つ押した。
「食べるものは、わたしが持ってくる。3年、それをやってるから」
「手当ては、わたしです」
「怪我、してないじゃん」
「明日、なさいます」
「してから来ればいいでしょ」
「してからでは、遅いのです」
扉が、3度目に鳴った。今度は、鳴ってから開くまでに間があった。
エリシアだった。廊下に立ったまま、部屋の中を順に見た。裸の背中、布を持った手、机の包み2つ。
「では、それ以外は、どなたが」
「それ以外って、何?」
ポーラが訊いた。エリシアは廊下から動かなかった。
「明日、ゼノ様はヴァリス王国の名で砂の上にお立ちになります。勝てば国の威光、負ければ記録が残ります。その記録を書く者と、書かれた記録を10年背負う者が要ります。お食事と手当ての、次に来るものでございます」
「……そんなの、知らないよ」
「ご存じなくて、結構でございます」
「今、馬鹿にしたでしょ」
「しておりません」
リィナが布を絞った。絞る音が大きかった。
「殿下。ゼノは、明日、勝ちます」
「存じております」
「では、記録の話は、明日でよろしいかと」
エリシアは、それだけ聞いて廊下を戻っていった。足音が速かった。
上を着るべきかどうか、俺は2人のあいだで迷っていた。そのうちに、ポーラが扉の枠を掴んだ。赤く荒れた指が、木の角に食い込んだ。
「明日、わたしは見に行かないから。昼の支度があるし、終わったら、みんな腹減らして戻ってくるでしょ。それに——あんたが殴られるとこなんか、見たくない」
「殴られねえよ」
「その人も、同じこと言った」
ポーラは顎でリィナを指した。リィナは、そうは言っていない。
「勝てとは言わないからね。言ったら、負けそうな気がする」
「……なんだそりゃ」
「知らない。なんとなく。いいから、食べて寝て」
扉が閉まった。廊下を戻っていく足音が、途中で一度止まって、また続いた。
俺の予定を、俺より先に決めた人間は、ポーラが初めてだった。
背中の布が、また動き出した。さっきより強かった。肩の骨の上を、皮が剥けるほど擦られた。
「痛えぞ」
「明日は、殴られないのでございましょう」
雨は、夜半に上がった。俺は窓を開けた。濡れた石の匂いがした。あの穴で18年、俺が嗅いでいたのは血と腐肉と岩だけだ。あれから半年で、俺はずいぶん多くの匂いを覚えた。
寮の2階で、まだ灯りが1つ点いていた。トバイアスの部屋だ。上級魔法が使えるようになってから、毎晩、特級魔法の陣を試している。届いていない。届く見込みも、まだ無い。
それでも組んでいる。
俺は、あの穴で18年、同じことをやった。誰も見ていなかった。だから、見られていないことを気にもしなかった。いま俺は、他人が同じことをやっているのを、窓から見下ろしている。
(……妙な気分だ)
俺は窓を閉めて、ベッドに腰を下ろした。明日、俺は2行目の名前として砂の上に立つ。1行目の男は、父に一度も褒められていない。そいつを潰すことが、そいつの父を引きずり出す餌になる。それを俺に仕込んだ娘は、18で、書庫の埃を3年数えていた。
口の中が、妙に苦かった。今夜の分は、包みを開けて食った。塩がきついせいだろう。明日の朝の分は、結び目のまま机に残っている。
明日、俺は人前に立つ。誰も死なない場所だ。俺は前世で、そういう場所に立ったことが一度も無かった。
殺すか殺されるか以外の勝ち方を、俺は知らない。
俺は掌を開いて、閉じた。
半年前、俺の荷は何も無かった。剣も、杖も、金も持っていなかった。出て行くのに支度すら要らなかった。今は、腰に獣皮の束が下がっている。空き地に20人いる。向かいの席が1つ埋まっている。
どれも、俺が集めたものではない。
置いていけば済む。半年前なら、そうしていた。




