第37話 懐刀の娘
その夜、俺は降臨学の書庫へ降りた。地下1階。灯りが2つ灯っている。娘は長机の前に座って、束を積んでいた。俺が入ると、立ち上がった。そして、前掛けを外した。
下に着ていたのは、絹だった。染めていない。飾りも無い。だが、あの布は俺が半年で嫌というほど見た。王宮の西棟で、上等な布なのに目立つ色を使わない男が着ていたのと、同じ質のものだ。
「ゼノ。先日、わたしがお渡しした束を、お調べになりましたね」
「調べた」
「4枚目から、目録印がありません」
「無かった」
「では、話が——」
娘は言葉を切って、両手を前で揃えた。指を一度ほどいて、また揃えた。それから、深く頭を下げた。地下の階段で見たのと同じ角度だった。今日は、その角度が正しく見えた。
「わたしは——フィーネと申します。グレイシス家の者です」
俺は、その家名を頭の中で探した。王宮で仕入れた記憶の中にも、この半年で聞いた名の中にも、無い。
「知らねえ家だ」
「知られていません。表には出てきませんし、名を口にすることも憚られる家ですの」
(——おい)
俺は、その言い回しを知っていた。あの村の夜だ。麦のパンをちぎりながら、エリシアが言った。
——この国には、代々王の傍に仕える家がございます。表には出てまいりません。名を口にすることも憚られる家です。
「懐刀か」
「そう呼ぶ者もいます。エリシア殿下を推したのは、わたしの家です」
俺は長机の椅子を引いて座り、フィーネを見上げた。
王女を選んだ家。表に出ない家。名を口にすることも憚られる家。その家の者が、3年、灰色の前掛けをつけて書庫の埃を数えている。
「3年、見習いをやってたのは」
「大学に人を置くと決めたのが、3年前です」
「誰を見るために?」
「決めていませんでした。置いてから、見るべき者が現れるまで待ちます。それが家の流儀です」
(……ふん)
網を張って待つ。俺があの穴でやっていたことだ。餌を待つ蜘蛛の生き方。かつての俺が最も嫌った戦い方で、今の俺には嫌う資格が無い。この家は、それを300年やっている。
「それで、用件は」
「ええ」
フィーネは、机の向こうに座った。
「ゼノ。お願いがありますの」
「聞こう」
「この国の膿となっている勢力を、潰していただきたいのです」
俺は、その言い方を待っていた。
「誰だ」
「言いませんわ」
「なぜだ」
「名を言えば、ゼノは明日にでも殺しに行きます。殺されては、困ります」
「殺すのか」
「そこは、まだ決めていません。潰していただきたい、と言いました。潰すの中身は、そのときに詰めますわ。——あの者は今、何もしていません。何もしていない者を殺せば、それはただの人殺しです」
「俺は人殺しだ」
「ええ」
フィーネは頷いた。
「ですが、わたしの家は、人殺しを雇う家では……」
そこで一度、唇を閉じた。
「……ありません。膿を出す家です。そう、教わってきました」
(——ほう)
俺は、机の向こうを見た。
「じゃあ、どうする?」
「待ちます」
「何を」
「あの者が、自分から手を出すのを」
フィーネは、机の上で指を1本立てた。
「学内選抜の結果が出た日です」
(……待て)
俺が2行目を書かなければ、選抜は無かった。1行目の男が、黙って代表になるだけだ。
「あんた、俺が書くのを待ってたのか」
「……書くとは、思っていました」
「レントの束を持ってきたのも、写しを明日へ延ばしたのも」
「束は、ゼノが探していたからです」
フィーネの声が、そこで速くなった。
「写しに日がかかったのも、本当です。4枚目から先は字が掠れていて、わたしは、嘘は——」
言いかけて、止めた。机の上で揃えていた指を握った。
「……書かせた、とは違います」
俺はそれには答えずに、次を訊いた。
「その膿ってのは、坊ちゃんの親父か」
フィーネは、答えなかった。握った指をほどかないまま、まっすぐ俺を見ていた。
(……ああ、そうかよ)
黙り方が、宰相と同じだった。
「言っておくが、俺は宰相に、一度だけ警告してる。次に王女に手を出したら潰す、と。宰相はそれを守った。守ったまま、エルドを潰した」
「知っています」
「守られると、こっちは動けねえ」
「ええ。ですので、今度は、あちらからゼノに手を出させますわ」
俺は、腹の底で笑った。
「クク……」
「あんた、いくつだ」
「18です」
「そうか。あんたの家は、質が悪いな」
フィーネは何か言いかけて、やめた。組んだ指の、親指だけが動いた。
「報酬を聞いてない。俺が動く理由が、まだひとつも出てねえ」
「えぇ……それは——」
フィーネは、束の上に手を置いて、それからどけた。
「空間魔法に詳しい一族の……居場所を、お教えできます」
俺は、椅子から背を離した。
「……もう一度」
「空間魔法に詳しい一族がいます。レントが会った者と、同じ血です。名も、国も、今は言いません。ですが、生きています」
「使えるのか」
「使えます」
俺は、机の縁を握り、それから力を抜いた。木が凹むところだった。
300年前に、レントは1人に会った。名を告げず、住まいを告げず、書き残すことを禁じた男に。
書物はそこで終わっていた。この先は人に在る、とレントは書いた。
その人が、まだいる。
「なぜ、あんたがそれを持ってる?」
「わたしの家は、王を選ぶ家です。選ぶには、この国に無いものまで知っておかないと……300年、そればかりです」
俺は、机の上の束に目を落とした。
王家の書庫は空だった。この大学は問いを作っていなかった。300年前の男は、答えに触れて書かなかった。その全部の裏側に、表に出ない家が1つ座っていて、300年ぶんの控えを取っていた。
(……底が見えねえ)
「ひとつ、条件があります。膿を潰していただく前に、試験があります」
「試験」
「ええ。学内選抜で代表になり、五大国の対抗戦で優勝していただきます」
「なぜだ。膿と関係ねえだろ」
「ありませんわ。関係が無いから、試験になりますの」
(……食えねえ家だ)
エリシアを推した家だ。血でも年でもなく、資質で選んだ。その結果、王女は兄に殺されかけて、辺境の岩場まで逃げた。この家は、人を選んで、選んだ人間を危ない場所へ立たせる。
そして、それを悪いことだと思っていない。




