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第36話 勇者の妹

ユーリカは、寮の裏の空き地に立っていた。朝の稽古が終わったあとだ。20人が引き上げて、リィナが木刀を数えている。娘は囲いの石に腰を下ろして、その数え方を眺めていた。


「探したぞ」


俺が近づくと、娘はそう言った。


「探されるようなことをした覚えはねえ」


「した」


ユーリカは立ち上がった。


「わたしの手から羽根ペンを取り返さなかった」


(……なんだそりゃ)


「取り返してほしかったのか」


「取り返されたら、殴っていた。1発、用意して行った。使わなかったから、余ってる」


俺はユーリカを見た。この半年で、俺に向かってきた人間は50人ほどいる。全員、金で雇われていた。


「ヴィントの襟を掴んでたな」


「掴んだ」


「メルセアの、何だ」


娘は、囲いの石を蹴った。石は動かなかった。蹴った爪先を見下ろしたまま、娘は口を開かなかった。答えないつもりなのだと思った。


「ジークハルト」


娘は、爪先を見たまま言った。


「という名を、聞いたことは」


「無い」


「……無いのか」


「無い」


ユーリカは、俺の顔を10ほど数えるあいだ見ていた。


「本当に無いのか」


「無い」


「メルセアの、ジークハルトだ」


「知らねえ」


娘は、急にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆った。肩が震えている。泣いているのかと思った。


違った。


笑っていた。


「ははっ。本当に知らないのか。この大陸で、あの名を知らない人間に会ったのは初めてだ」


「有名なのか?」


「勇者だ」


俺は、その言葉に引っかかった。


勇者。


この世界にひとりだけ生まれてくる者。誰が任命するわけでもない。ある日、どこかの国にそういう子が生まれ、死ねばまた別のどこかに次が生まれる。役目は、魔界や天界から何かが来たとき、それに抗える唯一の人間だという。そいつが使うのは、光魔法だ。


エリシアは、道中でそう言った。名も、国も、公にはされていない、と。あれは、ヴァリスの話だった。


「公にされてねえと聞いたが」


「ヴァリスではな」


ユーリカは立ち上がった。


「メルセアでは、旗に描いてある」


(……なるほどな)


「あんたは、その妹か」


「そうだ」


「じゃあ、あんたも光を使うのか。兄貴と同じ——」


「使わない!」


空き地の端まで、声が飛んだ。木刀を数えていたリィナが、顔を上げた。ユーリカは、自分の声に自分で驚いた顔をしていた。それでも、止まらなかった。


「勇者は1人だ。同じ腹から出ても、2人にはならない。兄が光で、わたしは風で、上級で、この大学で5人目で——メルセアでは、それでも勇者の妹だ。落第しても、たぶん、勇者の……」


そこで、娘の口が閉じた。息だけが荒かった。


「……あの名前を知らない奴のいるところに、行きたかった」


「見つかったか」


「見つかった」


娘は、俺を睨んだ。


「よりによって、あんただった。——腹が立つ」


(……旗、か)


俺には旗が無い。だから2行目を書けた。娘が3行目を書いたのは、俺に張り合ったからだろう。


「あの1発、まだ余ってるのか?」


「余ってる」


「なら、俺に使え」


娘は、一瞬止まって、それから動いた。


速かった。剣も少しやっている。踏み込みの形で分かる。右の拳が真っ直ぐ来た。狙いは顎ではなく、鼻の少し下だ。人を倒す位置を知っている。


俺は動かなかった。拳が、頬に当たった。


止まった。


「——な」


ユーリカが、拳を引こうとした。引けた。俺が押さえていないからだ。だが娘は、2歩下がって自分の手を見ていた。


「……なんだ、今の」


「殴られた」


「殴った。手応えが無い」


「あるだろう」


「無い。石を殴っても、壁を殴っても、手は痛い。あんたは、痛くない」


俺は頬に手をやった。今の拳は、俺が知っている人間の中では速い方だ。ガイル・ドランには及ばない。


「今のは、この大学で何番目だ」


「……3番目くらいだ」


「そうか。じゃあ、選抜で会おう」


娘は、殴った右手を開いて、また握った。その拳のまま、俺を睨んだ。


「選抜で、あんたを負かす」


「やってみろ。待ってる」


「やってみろ、だと?」


声が裏返った。ユーリカは自分の拳を見て、それからまた俺を見た。


「負かして、それで、あんたが——」


続きは出てこなかった。娘は背を向けて、寮の方へ歩いていった。途中で一度だけ振り返って、こう言った。


「あんた、朝の噂は本当か」


「どの噂だ」


「知らないなら、いい」


娘の耳が、赤かった。


俺は空き地に残された。リィナが、木刀を1本握ったままこちらへ来た。数え終えていないのは、1本だけ握ったまま来たことで分かった。


「……お顔に、跡がついています」


「殴られた」


「見ていました。避けられましたのに」


「避けたら、あいつの1発が余ったままだ」


「余っていても、よろしいではありませんか」


いつもの声より、角があった。リィナは握った木刀に目を落として、それきり黙った。


「消しますか」


「いや。しばらく置いとく」


リィナは返事をしなかった。残りの木刀を束ねる紐を、いつもより固く縛った。


    ◆


その夜、寮の扉の前に、灰色の前掛けの娘が立っていた。


「ゼノ」


「ニナか」


「ええ。今夜、お時間を頂けますか。——写しが、出来上がっています」


俺は、その娘の指を見た。白い。あの日と同じだ。俺が指を見ていることに、気づいている。気づいていて、隠さない。


「獣皮に、3行目が増えた。あんたの見立てに、入ってたか」


「入っていませんでした」


答えが、いつもより早かった。


「2行目が書かれれば、3行目は誰かが書きます。そこまでは——」


ニナは、そこで口を閉じた。前掛けの紐を、指で一度たぐった。


「……そこまでは、書いてありました。名前が、違っていただけです」


「外れたのが、気に食わねえのか」


「外れていません」


声が、半音高かった。ニナは自分でもそれを聞いたらしい。紐から指を離して、頭を下げた。いつもの角度より、浅かった。


「……地下1階で、お待ちしています」

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