第35話 3行目
告知は、東の塔の壁に貼り出された。獣皮が1枚。文字は4行しかない。
——五大国魔法対抗戦、本学代表選抜。
出場は1名。学年を問わず。
形式は実技。1対1。降参、または続行不能を負けとする。
申し込みは、この獣皮に自ら名を記すこと。
壁の前に、人が集まっていた。50人はいる。だが、名を書いている者はいなかった。全員が、獣皮の一番上の行を見ている。
1行目に、既に名前があった。
——ヴィント・ダリオン。
「早いな」
「昨日の夜のうちに書いたらしい」
「誰も2番目に書けんだろ」
「書けば、あの家に喧嘩を売ることになる」
「2年前もそうだった。結局1人しか出なかった」
(……ふん)
俺は人垣の後ろから、その獣皮を見ていた。1人しか出ないなら、実技は要らない。名を書いた時点で代表だ。
この大学は、11本の塔を建てて、200人の講堂を満たして、40冊の書名を読み上げる。その大学の代表が、《《誰も2番目を書かないこと》》で決まる。
俺は人垣を割った。誰かが道を空けて、空けた自分に驚いた顔をしていた。
羽根ペンは壁に吊るしてある。取ると、軸の真ん中だけが黒く光っていた。何人が握ったのかは知らねえが、手の脂が染みている。獣皮は硬く張っていて、指で押すと押した分だけ戻ってきた。
2行目に、名を書いた。
——ゼノ
家名の欄が空いている。係の者が引いた横線が、ここにも要る。俺は自分で1本引いた。
人垣が、静かになった。
「おい」
「書いたぞ」
「あの1年生か?」
背中に向かって投げられる声だった。振り返ると、止んだ。前を向くと、また始まった。
「上級が出たっていう」
「家名が無いんだと」
「無い奴が、ダリオンの隣に名前を並べたのか」
俺は羽根ペンを壁に戻した。その手を、横から掴まれた。
「貸せ」
ユーリカだった。測定の日に、係の者の言葉を途中で切って「わたしは上級だ」と言い切った娘だ。俺の手から羽根ペンを引き抜いて、壁の前に立った。人垣の後ろで、誰かが息を呑んだ。
娘は、3行目に書いた。
——ユーリカ
家名の欄が、また空いた。俺のと同じ形の横線が、もう1本増えた。
「……おい、まさか」
「あの女、メルセアの」
「家名を書いてないぞ」
「書けないんじゃないか?」
ユーリカは羽根ペンを壁に戻して、振り返った。人垣を、端から端まで見渡した。目が、一番後ろで止まった。そこに、ヴィントが立っていた。いつから見ていたのかは分からない。今日は、顎が上がっていなかった。
「3人だ」
娘は、声を張った。ヴィントの方を向いたままだった。
「これで実技になる。やっと大学らしくなったな」
「名を書いたくらいで、はしゃぐな。メルセアの——」
ヴィントが言い終わる前に、ユーリカは人垣を割っていた。割るというより、肩で押し退けた。3歩で男の前に着いて、襟を掴んだ。
「メルセアの、何だ」
ヴィントは、掴まれた襟を見下ろした。振りほどかなかった。
「……何でもない」
「何でもないなら、最初から口を開くな!」
娘の声が、塔の壁に当たって返ってきた。ユーリカは襟を突き放すように手を離して、誰の顔も見ずに人垣を抜けていった。
(……なんだ?)
誰も、娘を追わなかった。何人かが、揃って目を逸らした。それで分かる。ここにいる全員が、あの続きを知っている。
ヴィントは、乱れた襟を指で直し終えてから、俺を見た。
「ゼノ」
「よう」
「話がある」
塔の裏手へ回った。石の壁と壁の間の、日の当たらない場所だ。人は来ない。背中を当てた石は、昼だというのに濡れているみたいに冷たかった。
ヴィントは向かいの壁に背を預けて、腕を組んだ。
「なぜ出る」
「出ちゃ悪いか」
「悪い。お前には、出る理由が無い。半年前、大広間で、わたしに『用はねえ』と言った。……あの言い方は、忘れられん」
ヴィントは、組んだ腕の上で指を1本ずつ握り込んだ。
「用の無い男が、なぜ今になって、わたしの下に名を書く」
俺は答えなかった。
ヴィントは、組んでいた腕をほどいた。その腕の置き場が無いみたいに、片手で反対の袖口を掴んだ。
「……わたしは、首席になる。わたしは上級だ。この大学で上級は5人しかいない。そのうち3人は4年生だ。わたしは入学した年に上級へ届いた。この大学の歴史で3人目だ。3人目だぞ。誰も書かなかったから1行目に書いたのではない。書く前から、わたしの行だった。それを、お前が——」
息が続かなくなって、そこで切れた。
「父は」
男の声が、一度止まった。
「……父は、それを聞いて『そうか』と言った。『そうか』だ。忙しい人だ。忙しい人だから、あれで足りる。足りるのは分かっている。分かっているから、わたしは、首席に——」
(ああ)
エリシアの兄、エルド・ヴァリスは、この男の父親に毎日褒められていた。
ヴィントは、自分の口を押さえかけて、途中でやめて、その手を壁の石に当てた。
「……今のは、忘れろ」
「忘れねえ。誰にも喋らねえ」
「お前が、さっき黙っていたからだ。黙られると、わたしは——」
続きは出てこなかった。ヴィントは石に当てた手を見て、それから、もう一度俺を見た。
「俺が出る理由なら、探し物だ。この大学じゃ見つからねえ。代表になれば、五大国から人が来る。その中にいるかもしれねえ」
「……それだけか?」
「あぁ」
ヴィントは、そこで初めて笑った。嫌な笑い方だった。さっきまで下がっていた顎が上がって、口の端だけが動く。この男の地の笑い方だ。
「探し物」
男は、その語を口の中で一度転がした。
「わたしは、お前の探し物のついでに落とされるのか」
答えを待たずに、ヴィントは背を向けていた。
「さっきの女は、何なんだ?」
ヴィントの足が、止まった。手が、掴まれた襟へ行って、戻った。
「……知らないのか」
「知らねえ」
ヴィントは、俺の顔を見た。それから、口の端を上げた。今日で2度目だ。
「自分で聞け。わたしが言えば、また掴まれる」




