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第34話 旗の無い男

エリシアとは、ほとんど会っていなかった。彼女は上級生の別棟にいて、講義も違う。すれ違うのは食堂の入口くらいだ。


その食堂で、俺は妙なことに気づいた。彼女の周りには、人がいる。王宮のときとは違う。5人か6人が、常に半歩下がってついて歩いている。上級生だ。家名のある連中らしい。


だが誰も、彼女の隣を歩いていない。


夜、俺の部屋の扉が鳴った。


「入るか?」


「いえ、ここで」


エリシアは廊下に立ったまま、そう言った。いつも、扉の前で止まる。


「六属性の基礎を、3日で終えられたそうでございますね」


挨拶は無かった。廊下の灯りを背にしているので、顔の半分が暗い。


「1月かかる課程でございます。教師から、苦情が参っております。わたくしのところへ。ゼノ様が何をなさっても、この大学はわたくしに言ってまいります。家名をお持ちでないので……預かった者に。今日だけで、3人でございました」


指を折って数えかけて、途中でやめた。


「手間をかけたな」


「手間ではございません」


彼女は言葉を切って、言い直した。


「……手間では、ないのです。それが困っております」


    ◇


——わたくしは、あの夜から、ゼノ様に何ひとつお頼みしないと決めておりました。お頼みすれば、あの方は必ず何かと引き換えになさるので。口には出しておりません。


それなのに、大学への書状に王女の名を書いたとき、わたくしの手は少しも迷いませんでした。書き終えて、封蝋を押して、わたくしはひとりで笑っておりました。


「口利きの分は、返す」


彼女の肩が、跳ねた。


「……返していただくものは、ございません」


「借りは残ってる。そいつは、あんたが決めることじゃねえ」


「どうして」


声が、廊下に響いた。エリシアは自分の声に驚いたように、口元へ手をやった。


「どうして、そう、すぐに……」


続きは出てこなかった。前で重ねていた手を組み直して、また組み直して、それから下ろした。


「——失礼いたしました」


(……苦情が、よほど堪えてるらしい)


「講義では、もう少し黙っとく」


エリシアは、俺の顔を見た。


「……そうしていただけますと、助かります。講義だけでなく、朝も」


「朝?」


「東の寮は、声が通るそうでございますから」


言ってから、エリシアは口元を押さえた。指の上で、目が大きくなっていた。


「——いえ。厨房の、ポーラという娘でございますね。3年目で、朝と夕に食堂へ立って、ゼノ様の椀を、いつも先に——」


そこで、止まった。唇が、次の語の形のまま動かなくなった。


「名前と、年数まで出てきたな」


「……」


「俺は、厨房の娘の話はしてねえぞ」


エリシアは、口元から手を下ろして、前で組み直した。


「……人の口に、上ります」


「その口は、勤めた年数まで言うのか?」


「言います」


「へえ」


「言うのでございます」


声が、少し大きかった。言い切ってから、彼女は廊下の灯りの方を見た。


「調べては、おりません」


俺は、それを疑う理由を持っていなかった。ただ、俺は名前を訊いていない。年数も訊いていない。それが2つ出てきただけだ。


「……王宮ですので。いえ、大学でございました。人の口は、同じでございます」


長い間があって、彼女はこう言った。


「講義には、支障ございませんか」


「無い」


「では、よろしゅうございます」


「最近、顔色が悪いな」


彼女は、少し笑った。


「書類でございます」


(……まだ書類か)


王都を出る前に、10日かけて片付けていた。あれが、まだ残っているらしい。


「寝ろ」


「はい。書類でございます」


エリシアは、廊下へ出て、そこで足を止めた。


「ゼノ様。ひとつ、お報せがございます」


「なんだ」


「明後日、学内選抜の告知が出ます」


それだけ言って、彼女は頭を下げて、廊下を歩いていった。俺は扉を閉めた。出てくれ、とは、彼女は言わなかった。


    ◆


翌朝、食堂でトバイアスが向かいに座った。いつの間にか、俺の前に座るようになっていた。3つ空いていた席のうち、1つが埋まった。


「明日、選抜の告知が出るそうです」


「らしいな」


「……ご存じでしたか。五大国の魔法対抗戦に出る代表を、1人だけ選ぶんです。ヴァリスの代表にもなるので、名が王宮まで行きます。出るのは、たぶんヴィント様です。4年前も、2年前も、名を書いたのは1人だけでした。みんな、勝てないので。勝てないのに書いたら、その、負けますから」


男は、スープを掬いながら言った。掬って、飲まずに椀へ戻した。


「負けると、何か減るのか?」


「……減ります。家の名が。この大学は、家で来ている人が多いので。負けた記録が、家に残ります」


(……なるほどな)


旗を持っている奴は、旗を汚したくない。だから出ない。俺には旗が無い。


(どうやら、この大学の代表選抜は機能していないらしいな。ちょいと俺が掻き乱してやるか。ククク……)

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