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第33話 ベッドが揺れた

その朝、俺はベッドの上で目を開けなかった。


扉が開いたのは、日が昇りきる前だった。


鍵はかけていない。かける習慣が無い。あの穴に扉は無かったし、王宮では俺の部屋に入ろうとする人間がいなかった。入ってきた足音で、誰かは分かった。


ポーラだ。


ポーラは、朝に部屋を回る。前の晩に食堂から持ち出された椀を回収して、洗い場へ戻す。学生が返さないからだ。俺は返す方だが、それでも「ついでだから」と言って寄る。


昨日、俺は椀を1つ部屋に残していた。


足音が、机の前で止まった。椀を取る音がした。


そこで止まったまま、動かない。俺は目を開けなかった。材料が足りない。何をしようとしているのか、まだ分からない。


毛布が、半分落ちていた。俺は寝るときに服を着ない。あの穴で18年、俺が身につけていたのは魔物の皮1枚だ。布は今でも慣れない。息を呑む音がした。


(……ん?)


足音が、ベッドのそばまで来て、また止まった。何の音もしなかった。


(——おい)


触られた。


胸だ。指先ではなく、掌ごと置かれた。熱い。湯を扱う手の熱さで、皮が硬く、ところどころ火傷の痕でざらついている。置かれた手が、震えていた。


(……何をしてる)


分からなかった。椀を取りに来ただけのはずだ。寝ている俺の枕元へ人間が来るときは、たいてい刃物を持っている。この手は、何も持っていない。


起きれば、ポーラは死ぬほど恥をかく。リィナは4日間、俺の顔を見なかった。あれは俺が「子供が欲しいのか」と訊いただけだ。今回は、それどころではない。


寝ておくのが親切だ。そう決めた。


判断が甘かった。


ベッドが、沈んだ。ギシ、と。


俺は目を開けた。


ポーラが、俺の上にいた。


前掛けを外していない。腕まくりもそのままで、肘まで濡れている。顔が真っ赤で、目は固く閉じてあった。布が外れて、髪が落ちていた。明るい亜麻色が、肩甲骨の下まである。厨房ではいつも包んでいる分だ。髪から、今朝の竈の煙と、刻んだ葱の匂いがした。


重い。肩が丸くて、腕に肉がある。前腕が両方とも硬い。鍋を肩に担いで運ぶ体だ。そこまで読んで、やめた。読んで、どうする。


娘は、こちらを見ていなかった。唇を噛んでいた。噛んだまま、何か小さく言った。聞き取れなかった。自分に言い聞かせている声だった。


(……おい。どうすりゃいい)


止めるなら、今だ。ベッドから下ろして、服を着せて、扉から出す。それで、この娘は明日から、俺の前に椀を置けるのか。


置けねえだろう、と思った。根拠は無い。人間の娘が何を恥じて、何で立ち直るのか、俺はまだ知らない。


娘の膝が、震えていた。


震えたまま、俺の上から下りた。ベッドの縁に座って、前掛けを探した。外していない。それに気づいて、手が止まった。


「……帰る」


「待て」


「ごめん。わたし、なんか、変なこと」


立ち上がろうとして、膝が言うことを聞かなかったらしい。もう一度座り直して、そこから動かなくなった。


「昨日の夜、あの子を入れたでしょ」


「陣を見せた」


「知ってる。知ってるけど、朝まで灯りついてたって、みんな言うから」


「ついてた」


「……」


「それで、来たのか?」


ポーラは答えなかった。答えないまま、両手で顔を擦った。湯を扱う手だ。擦ったところが、赤くなった。


「わたし、あんたに出せるもの、何にも持ってない。知識もないし、剣も振れないし、名前もないし」


「椀を出してるだろう」


「出してるよ。3年やってる。でも、それだけなの」


「それだけで、俺はここに座ってる」


娘は、顔から手を離した。


「……意味分かんない」


「俺も分からねえ」


今度は、目を閉じていなかった。俺は起き上がって、毛布を彼女の肩にかけてから、訊いた。


「本当にいいのか?」


訊いてから、自分で驚いた。前世で、俺は一度もこれを訊いたことがない。訊く必要が無かったからだ。


ポーラは毛布を握って、肩から落とした。


「……決めた」


俺は待った。


「言わない。言ったら、たぶん帰る」


娘は、自分から手を伸ばしてきた。


前世の俺には、生涯を通じてひとつだけ譲らなかった原則がある。


——据え膳食わねば男の恥。


据え膳ではなかった。この娘は、自分で運んできて、自分で座った。


理屈は、それで足りた。足りたことにした。


ポーラが、悲鳴のような音を出した。目を、いっそう固く閉じた。俺の手首を掴んだ指が、熱かった。放すのかと思ったら、放さなかった。


俺の喉まで、何か上がってきて、そこで止まった。


ポーラは、夢中で動いた。確かめながらではない。獣さながらの動き方だ。声は押し殺しきれておらず、乾いた部屋に響いていた。


ベッドが、激しく揺れた。


昼、食堂は妙に静かだった。俺が椀を持って長机の端に座ると、あちこちで話し声が止まった。少しして、また始まった。前より小さい声で。


トバイアスが向かいに座り、羽根ペンを3本並べて、それから何も言わずにスープを掬った。


「どうした?」


「……いえ」


男は、スープを掬う手を止めたまま、匙の先を見ていた。


「東の寮、3階です」


「あぁ」


「僕は、その真下です」


(——ああ)


「聞こえたのか?」


「はい」


「どのくらい」


「……夜明け前から、塔の光が黄色くなるまで」


塔の光がいつ変わるのかを、俺はまだ覚えていない。


「長いか?」


「長いです」


「あの、ゼノさん。人間は、ふつう」


「トバイアス」


俺は口の端を上げた。


「俺は魔王だぞ?」


トバイアスが、羽根ペンを1本落とした。拾わなかった。


男は口を開かないまま、スープを全部飲んだ。


噂は、その日のうちに大学中を回った。


夕方には、街の酒場に届いていた。選抜の賭けの横に、別の賭けが立ったとトバイアスが教えてくれた。何を賭けているのかは、教えてくれなかった。


    ◇


——わたしは、その話を、寮の裏の囲いで木刀を教えている最中に聞きました。


20人のうちの1人が、木刀を止めて仲間に囁いていました。東の寮の3階で、朝から、と。


気がついたときには、その者の木刀を叩き落としていました。稽古の最中に口を動かしたからです。いつもなら、口で注意します。


朝にあの方のお部屋へ椀を下げに行くのは、厨房の娘ひとりです。毎朝お部屋を掃いていますので、知っています。


稽古の後、わたしは食堂の裏まで行きました。その娘が、洗い場で鍋を洗っていました。わたしより、ずっと背の低い娘です。まくった袖から出た腕が、湯気で赤くなっていました。


何を言うつもりだったのか、自分でも分かりません。娘が顔を上げる前に、わたしは引き返しました。


囲いへ戻って、木刀を数えました。19本しかありませんでした。1本は、昼に叩き落としたまま、草の中に転がっていました。拾いに行って、拾ったその木刀で、囲いの石を一度叩きました。手が痺れました。


——わたしのときは、ベッドは鳴りませんでした。


鳴らさないように、していましたのに。


    ◆


その夜、ポーラは食堂に立っていた。いつも通り、鍋を抱えて、腕まくりをして、肘まで濡らして。


俺の前に椀を置いた。


「はい、おかわり」


「まだ1杯目だ」


「知ってる」


「先に持ってきた方が早いでしょ」


俺は椀を2つ見比べた。


「ポーラ」


「なに」


「今朝、俺は起きてた」


娘は、鍋を落としかけた。落とさなかった。3年目の腕だ。


「……寝てたでしょ」


「起きてた」


「寝てた!」


食堂じゅうが振り向いた。ポーラは鍋を抱えたまま、振り向いた顔をひとつずつ睨み返した。全員が、椀に顔を戻した。


「寝てたの。決めたから」


そして、次の机へ行った。耳の後ろまで赤かった。


(……勝手に決めやがる)


    ◆


その日から、俺の向かいの席は埋まるようになった。埋めたのは、話を聞きたい連中だ。


噂の中身は、3日で形を変えた。


1日目は「東の寮で音がした」だった。2日目には、時刻がついた。夜明け前から塔の光が黄色くなるまで、と。3日目には、説明がついた。


——魔王は、魔王らしい。


(……おい)


魔王が魔王らしいってのは、どういう意味だ。


俺は前世で三界の頂点に立った。だがあれは、悪魔の身体でやったことだ。今のこの身体は、あの穴で18年育てた人間の身体でしかない。


もっとも、18年で何をやっていたかを考えれば、造りが人間離れするのは避けようがない。俺は蟲を殺し、獣を殺し、ヒュドラを何千体殺した。


    ◆


4日目に、ミルカが噂を訂正しに行った。


俺は頼んでいない。娘は食堂の入口で俺を見つけて、報告に来た。


「訂正してまいりました」


「何をだ?」


「ゼノ様が夜に女を部屋へ入れる、という話です。事実に誤りがあります。夜に伺ったのは、わたしです。厨房の方ではありません」


俺は椀を置いた。


「……それを、誰に言った?」


「講堂の前に10人ほどおりましたので、その10人に。あと、階段で3人」


「中身は」


「先日の夜、寮のお部屋で獣皮の束を見せていただきました。円が5つ重なっている写しです。外側から3枚目までは読めました。灯りを2つ点けて、朝まで——」


「待て」


「まだ途中です。4枚目の刻みが、こちらの写しと合いません。それを確かめるために、もう一度お部屋へ伺う約束を」


「してねえ」


「では、これからします」


娘は獣皮を抱え直してから、周りを見た。講堂の前で話を聞かせた10人が、入口からこちらを見ていた。


「……減りましたか」


「増えた」


「何がでしょう」


「1つだった話が、2つになった」


ミルカは少し考えて、羽根ペンを取り出した。


「では、3つ目は作らないようにします」


    ◆


5日目に、大学の掲示板に落書きがされた。消されたのは、その日の昼だった。消したのはポーラだ。


「あんたの名前が書いてあった」


娘は、椀を置きながらそう言った。置き方が乱暴で、スープが縁から跳ねた。


「なんて書いてあった」


「言わない。……言わないけど、字が汚かった。ああいう字書く奴は、椀も返さないの。絶対そう」


「消したのか?」


「消した。水じゃ落ちないから、灰つけて擦って、それでも落ちないとこは爪で——」


娘は、赤い手を前掛けで拭いて、また拭いた。


「わたしの名前も、書いてあったから」


俺は、椀の縁に跳ねたスープを指で拭った。熱かった。


「困ってないから!」


声が、天井の梁まで上がった。向こうの机の何人かが振り向いて、すぐに椀へ顔を戻した。


「困ってないってば。困ってるのは、あんたでしょ。選抜、出るんでしょ。変な噂があったら、やりにくいじゃない、そんなの。それで負けたら、わたしのせいって言われるんだから。そんなこと言う奴いたら、わたし、鍋ぜんぶひっくり返すからね」


「選抜? なんだそりゃ」

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