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第32話 支払えるものが知識しかない

翌朝、リィナの稽古が始まった。場所は、寮の裏の空き地だ。石を並べて囲いを作り、地面を均した。石は俺が運び、地面はリィナが均した。初日に来たのは、1人だった。


トバイアスだった。


「あの」


男は、木刀を両手で持って立っていた。持ち方が、箸(はし)だった。


「僕は、その、術式しかやってないので」


「知ってる」


「陣を組む前に殴られたら終わりだと、ゼノさんが」


「ああ、言った。……覚えてたのか?」


「……だから、来ました」


トバイアスの喉が、一度上下した。


「1人目だ」


リィナは、トバイアスの手元を見た。それから、木刀の持ち方を直させた。


「右手が上です」


「右が、上」


「左は、握りません。添えます」


「……握らない?」


「握ると、剣が走りません」


俺は囲いの外に座って、それを眺めていた。リィナは、自分の右手を開いて見せていた。人差し指と中指の付け根を指している。


「わたしは、ここに胼胝がありました」


「握り込む癖です。10年、誰にも直してもらえませんでした」


「今は無いんですか」


「消していただきました」


「ですので、あなたには10年かけさせません」


(——ふん)


俺は空を見た。消したのは俺の都合だ。20年ぶんの痛みを覚えている女が、それを忘れたふりで服の下に隠しているのが、癪に障った。


俺は、そういう使い方を思いつかなかった。


    ◆


3日目には、6人になっていた。5日目には、11人。理由は分かりやすかった。この大学の連中は、詠唱に十を数えるほどかける。その十のあいだ、身体は無防備だ。誰もがそれを知っていて、誰もそれを埋めていなかった。


11人になった日から、囲いの脇に水の桶が置かれるようになった。


置いたのはポーラだ。厨房の仕事の合間に、柄杓と一緒に運んでくる。


「昼に20人ぶん作るんだから、汗かいた分は返してもらわないと」


俺は木刀を持たない。当たる直前に足元の影を1寸ずらす。それだけの役だが、20人を相手にすれば、こちらも濡れる。上を脱いで、井戸の水を頭からかぶった。


柄杓の音が、途中で止まった。


振り返ると、ポーラが桶の縁を両手で持ったまま、囲いの石の方を見ていた。石には何も無い。


「どうした?」


「なんでもない」


「桶が空だぞ」


「今、入れる」


娘は井戸へ歩いていった。歩き方が、いつもより速かった。途中で一度振り返って、目が合って、また前を向いた。


戻ってきたときには、顔の赤みは引いていた。桶を置いて、柄杓を引っかけて、それから言った。


「あんた、あの穴で何食べてたの」


「蟲だ」


「……味は」


「無え」


ポーラは柄杓の柄を布で拭いた。拭き終わっても、手を止めなかった。


「じゃあ、ちゃんとしたご飯って、最初に食べたの、なに」


「麦のパンと、豆と塩漬け肉のスープだ」


「……うちのと、同じじゃん」


「同じだ」


柄杓を桶に戻す音が、やけに軽かった。


「覚えてるんだ」


俺は水を飲んだ。何を覚えていることになっているのかは、訊かなかった。訊くほどのことだと思わなかった。


    ◇


——術式しかやってこなかった僕は、5日目の朝に、その囲いの外で足を止めました。


中で木刀を振っているのは、僕が知っている連中でした。同じ年に入って、僕より先に上の講義へ進んだ者もいます。そのうちの1人が、僕に気づいて笑いました。


「トバイアス。お前が一番乗りだったって、本当か?」


「……本当だよ」


「術式しか能が無いくせに」


言い返そうとして、何も出てきませんでした。代わりに僕は、そいつの左手を見ていました。握り込んでいます。1日目に、僕が直された握り方です。


「左は、添えるんだよ。握ると、剣が走らない」


言ってから、自分でも驚きました。そいつは顔を赤くして、黙って握り方を直しました。


この大学には、11本の塔があります。200人の講堂があります。そのどこにも、この囲いはありませんでした。


その頃、ミルカが3日続けて俺の前に現れた。1日目は講堂の階段。2日目は食堂の入口。3日目は寮の扉の前だった。毎回、同じことを言う。


「あなたの陣を、見せてください」


「断る」


「はい」


娘はそう答えて、その日は帰る。


4日目は、寮の裏の空き地に立っていた。リィナが20人に木刀を振らせている脇で、獣皮の紙を抱えて、じっとこちらを見ている。


俺は囲いの外から声をかけた。


「あんた、しつこいな」


「しつこくありません。1日に1回です」


「断ってるだろう」


「断られています。ですが、断る理由を聞いていません」


(——ふん)


「理由は、あんたに言えねえ」


「では、それが理由ですね。分かりました」


娘は頷いて、獣皮の紙を胸に抱え直した。


「では、報酬を言ってください」


俺は少し、間を置いた。


「報酬?」


「見せていただくのですから、こちらが払います」


「わたし、払えるものが知識しかありません。ですので、先に何が要るかを聞かないと、払いようがないのです」


「じゃあ、あんたの身体でいいぞ」


風が鳴った。


木刀を振っていた生徒が1人、俺の横を飛んでいった。囲いの外まで飛んで、草の上で2度跳ねた。投げた方を見た。


リィナが、こちらを向いて微笑んでいた。手には何も持っていない。


「あの」


ミルカだった。顔色は、ひとつも変わっていなかった。


「わたしの貧相な身体では、満足しないと思います」


「……」


「ですので、やはり知識で払います」


(……こいつ)


「心配するな。冗談だ」


「冗談でしたか。……わたし、冗談が苦手です」


「わたしも、です」


囲いの中から、リィナの声が飛んできた。笑っていなかった。20人が、木刀を構えたまま動きを止めていた。


草の上で、さっき飛んでいった生徒が起き上がった。膝の草を払って、囲いの方へ頭を下げた。


「ありがとうございました」


「礼を言うな」


「は、はい。ですが、投げられたのは初めてで、その、勉強に」


リィナは答えなかった。答えずに、その生徒の襟を掴んで、列の頭に並べ直した。


ミルカが、こちらを見ていた。


「今のは、嫉妬ですか」


「……」


「人が飛ぶのは嫉妬のときだと、本で読みました。確かめたいので、ご本人に伺います」


娘は囲いの方へ歩き出して、3歩で戻ってきた。


「戻ってきたのは、なんでだ?」


「木刀を持っておりませんので」


「持ってても同じだ」


リィナの声が、また飛んできた。


「鍛錬です」


「何も訊いてねえぞ」


「鍛錬です」


20人が、揃って一歩下がった。


この半年で、俺に何かを求めてきた人間は何人もいた。王女は書庫を差し出した。宰相は鍵を差し出した。どちらも、こちらが何を欲しがっているかを先に読んでから来た。


ミルカだけが、読まずに来た。


(……ふん)


俺は腰の布包みに手をやった。王家の書庫から持ち出した獣皮の束だ。この半年、俺以外の誰にも開いて見せていない。開いても、意味が無かったからだ。


「ミルカ。——ひとつ、読めるか」


    ◆


その日の夕方、ポーラは椀を2つ置かなかった。


1つだけ置いて、鍋の方へ戻りかけて、止まった。


「今日、投げられた子がいたって」


「木刀の話か?」


「違う。投げた方は、手も使ってないって聞いた」


「あぁ」


玉杓子の先から、スープが一滴落ちた。


「なんで投げたの」


「知らねえ」


ポーラは鍋を抱え直しただけで、動かなかった。前掛けの結び目が、今日は固く締まっている。


「あと、背の高くない子。獣皮抱えてる子」


「ミルカだ」


娘の眉が、名前のところで一度動いた。


「名前、覚えてるんだ」


「3日続けて来た」


「ふうん」


娘は俺の椀を見た。まだ半分残っている。


「今夜、その子を部屋に入れるって、本当?」


「陣を見せる」


「ふうん」


「2度目だぞ、それ」


「言ってない」


ポーラは鍋を抱えて次の机へ行った。その机で、椀を置く音が3つ続けて鳴った。3つとも、うちの分より大きかった。


俺は椀を空にした。おかわりは、来なかった。


    ◆


その夜、俺はミルカを寮の部屋へ入れた。机に灯りを2つ置いて、束を開いた。


5つの円。


娘は、椅子に座らなかった。立ったまま身を屈めて、机に両手をついて、そのまま動かなくなった。十を数えるほど、瞬きをしなかった。


「……ゼノ様」


「様はつけなくていい」


「ゼノ」


声が、掠れていた。


「これは、どちらで」


「言えねえ」


返事は無かった。娘の目は、もう円の縁に戻っていた。


俺はそこから半刻、何もしなかった。娘は紙を出して、円の縁の刻みを1つずつ写し始めた。写しながら、時々小さく唸る。時々止まって、前に写した分を指でなぞる。


俺は、王家の書庫の4晩目に、自分が同じ姿勢で同じことをやったのを思い出していた。


あのとき、俺は3枚目の後半で止まった。


ミルカも、3枚目で止まった。


「ここから、壊れています」


「ああ。……俺も、そこで止まった」


「……ご存じでしたか」


「王家の書庫で読んだ。1枚も先へ行けなかった」


娘は顔を上げた。


「では、ゼノは、ここまでは読めるのですね」


「読める。そこまではな」


「1枚目の外縁の、この向きの意味も」


「回る向きだ。外から内へ噛む。2枚目は、逆に回る」


ミルカは、羽根ペンを落として、拾わなかった。


「この大学に、それを読める者はいません。先生も読めません。父も……わたしも、今日まで。今日まで、です。いま、1枚目だけ——」


娘は自分の写しを指した。指が、紙の上で2度空振りした。


「読めました。ゼノが向きを言ったので」


(……ああ)


トバイアスと同じだ。4000回組んだ男に、俺は一言だけ言った。その一言をこの界の誰も持っていなかったから、4000回が届かなかった。


ミルカは、12年ここに座っている。


娘は、写しと原本を交互に見ていた。その目が、途中で止まった。


「これは……1人が描いたものでは、ありません」


俺は、机から顔を上げた。


「……どういう意味だ」


「線の入りが違います」


「1枚目と2枚目は、筆を置く前に手が止まっています。刻みの深さが、意味のあるところだけ深い。書いた者は、何を書いているか分かっている手つきです」


「3枚目から先は」


「一定です」


「全部同じ深さで、同じ速さです。見たものを、見たとおりに引いています。手が迷っていません」


俺は、その束を睨んだ。半年前、俺はこれを「意味を知らずに線を写している」と読んだ。


それは正しかった。


だが、半分だけだった。


「つまり、最初の2枚を引いた奴は、意味を知ってた。途中で、書き手が代わった」


「あるいは、知っている者が、途中で書けなくなったか」


部屋が、静かになった。


2000年前、天使の掌を見た人間がいる。その人間の隣に、《《意味の分かる者が座っていた》》。


2枚目まで書いて、そこで止まった。あるいは、止められた。


「ミルカ。あんたの読みで動く」


「報酬の話だったな。今のが報酬だ。釣りが出てる」


娘は、聞いていなかった。写しの1枚目を、指でなぞり続けている。


「ミルカ」


「……何か、言いましたか」


「いや」


娘は、羽根ペンを拾った。


「陣を、見せてください」


俺は掌を上げた。


1枚。2枚。3枚。4枚。特級だ。


部屋の灯りが、押されて小さくなった。


ミルカは、悲鳴を上げなかった。膝もつかなかった。写し始めた。4枚が回っている真下で、机に紙を広げて、外側の円の刻みから順に写している。手が震えていた。震えたまま、線がずれていなかった。


(……こいつは)


俺はこの半年、いろいろな目で見られてきた。怯える目。値踏みする目。助けを求める目。


この目は、初めてだった。


俺を、《《資料》》として見ている。

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