第31話 目録印
娘は、灰色の前掛けをつけていた。この大学の司書見習いの装いだ。入学の日に、東の塔で同じものを着た者を何人か見た。背は俺の肩ほど。髪を後ろで1つに束ねている。腕に、紐で綴じた束を3つ抱えていた。
「レントの続き、こちらです」
「続き?」
「ええ。最下層にあるのは、あの方が大学に納めた分だけです。書簡と覚え書きは、別に分けられています。学問ではないから、だそうです。わたしが分けたんじゃありません」
訊いてもいないことを、最後に足した。
(——ほう)
俺は階段の途中で足を止めたまま、娘を見ていた。
「あんた、俺が下にいるのを知っていたのか?」
「灯りが1つ減っていましたので。……11の書庫で、無くなるのはたいてい灯りです。本より先に」
言いながら、娘は階段の上へ一度目をやった。誰かが降りてこないかを見る目だった。見てから、俺に戻した。
俺は階段を上がりきって、娘の前に立った。娘は下がらなかった。
(……下がらねえのか)
俺はこの半年で、ずいぶん多くの人間に下がられている。近衛が下がり、侍従が下がり、門番が下がった。下がらなかった者は、数えるほどしかいない。宰相と、あの司書の爺さんと、ベッドの上の王だ。
全員、下がらない理由を持っていた。
「名は」
「ニナです。見習いの、3年目です」
「3年で最下層の目録を覚えるのか」
「覚えません。覚えているのは、誰も借りない棚だけです。借りられる棚は、いつも動いていますので。……動いている棚の方が、厄介なんです。どうでもいいですね、これは」
娘は、抱えていた束を階段の下の長机に置いた。長机を、俺との間に挟む位置だった。置くとき、袖が滑って、手首から先が灯りに入った。
俺は、そこを見た。理由は、自分でもよく分からない。この半年で、俺は人間の身体をずいぶん見るようになった。リィナの背中の厚みで、退く型を持っていないことが分かった。ガイルの手の作りで、毎日振っていることが分かった。
人間は、やってきたことを身体に書いている。
娘は、上から2つ目の紐をほどいた。ほどき方が、速かった。自分で結んだ結び目だ。
訊かれたことの一段外側を返してくる。そういう返し方をする人間を、俺は1人知っている。
俺は束を受け取った。受け取るとき、娘の指に触れた。
(——おい)
荒れていない。この大学の書庫は、地下4階で埃が胸まで舞う。革は乾いて粉になり、指で撫でれば指紋の形に残る。3年これをやった人間の指は、あの司書の爺さんのように黒くなる。
ニナの指は、白かった。爪も短く切ってあるが、切り口が丁寧すぎる。
俺は束を開いた。開きながら、訊いた。
「なぜ俺に持ってきた?」
「お求めのようでしたので」
「……見てただけで、そこまで分かるのか?」
娘は、俺の手の中の束の端を、指先で押さえた。
「あの部屋の扉が開いたのは、30年ぶりなんです。ずっと、誰も開けていません。わたしが来てからだって、誰も」
言い終える前に、娘は指を離して、前掛けの紐を腰の後ろで締め直した。緩んではいなかった。
俺は束から目を上げた。
「開けたことは分かるだろうな。錆びてた」
「音がしました。地下2階まで、降りていましたので」
(……ふん)
俺の足跡の間にあった、小さい足跡。ニナは、俺が扉を壊す音を、地下2階で聞いている。俺が下へ降りていくのを見て、後を追ってきたことになる。
「何を、お探しなんですか」
訊いたのは、娘の方だった。
訊いてから、娘は唇を結んだ。束を置いた手が、長机の縁を一度だけ撫でた。
「……いえ。レントの学は、移動です。あの方は、天使がどうやって来たかを問いました。ですので、あれを求めて来るのは、たいてい天使に用がある方か、それとも……」
俺は答えなかった。束の1枚目を繰った。乾いた革が、指の下で粉を吹いた。
「……天使に用がある人は、講堂で手を挙げません」
紙の音に被せるように、娘は言った。
(——ああ)
ニナは、あの講義を見ている。最上段の隅で1年生が手を挙げて、講義が途中で終わった。その日のうちに、その1年生が地下4階の扉を倒した。繋げるのに、たいした頭は要らない。
「移動だ」
「隠す気もねえ。俺は、遠くへ行きたい」
「どちらまで」
「歩いて行けねえところまでだ」
娘は、答えなかった。前掛けの紐に、また手が行った。今度は締め直さずに、指に巻いて止まった。
「ゼノ様」
「様は要らねえ」
「では、ゼノ」
「その束は、お貸しできません。写しを作りますので、明日、同じ時刻にこちらへ」
「今読む」
「灯りが、切れます」
俺は指先に火を灯した。
「……それは」
娘は火を見て、俺の顔を見て、もう一度火を見た。言いかけたことの続きが、出てこなかった。
「——規則です。規則ですので。持ち出しも、写しを作ってからと決まっています。決まっているんです」
「分かったよ、明日だな」
「ええ」
娘は、深すぎるほど頭を下げた。司書見習いが学生にする角度ではない。あれは、王宮で見た角度だ。
娘が階段を上がっていった。足音が消えてから、俺は束をもう一度開いた。
1枚目の裏に、この大学の目録印が押してある。2枚目にも。3枚目にも。
4枚目に、無い。
俺は残りを繰った。4枚目から先は、全部無かった。
この束の後ろ半分は、どこかから持ち込まれて、前半分の後ろに綴じ足されている。綴じ直したのは最近だ。紐が新しい。
(……なるほどな)
俺は束を閉じた。ニナは、俺にレントの続きを見せに来たんじゃない。
《《自分の家の物を、この大学の物のふりをして俺に読ませに来た》》。
俺は地下1階の長机について、灯りの残りで後ろ半分を読んだ。書簡の写しだった。レントが誰かに宛てた手紙が4通と、その返事が2通。差出人の名は、全部削ってある。その跡も古い。紙の変色が、削った跡ごと同じ色になっている。
3通目に、こうあった。
——貴家が余の学を要らぬと申されるのは、余の学が要らぬからではなく、要る者が現れておらぬからと解した。ならば余は書いて残す。要る者は、余の死後に来るやもしれぬ。
俺はその1行を、2度読んだ。
貴家。
300年前、レントは家に手紙を出している。名を削られた家だ。その家は「要らぬ」と返している。そして、要らぬと返した相手の書簡を、300年保管している。
(……ふん)
俺は束を閉じて、灯りを落とした。




