第30話 書物ではなく人に在る
ハルダーの弟子のミルカには、断ると答えた。理由は言わなかった。訊かれなかったからだ。
降臨学の書庫は、11本目の塔の地下にあった。地上に3階、地下に4階。地下の方が深い。40年前に建った塔だが、掘る方に金をかけたらしい。
トバイアスが階段の途中で足を止めた。陣を4000回組んだ3年生だ。組んで、重ねて、崩れて、また組む。それを3年やって、まだ足りないと言っている。案内を買って出てから、どの塔でも先に立って歩いていた。
「僕は、ここまでです」
「なんでだ」
「下は、3年生以上でも申請がいります」
「というより……誰も行かないので、申請の仕方を誰も知りません」
俺は魔石の灯りを1つ借りて、下へ降りた。
地下1階。棚が整っている。人の手が入っている。地下2階。棚の上に埃がある。だが床は掃かれている。地下3階。床にも埃があった。俺の足跡が残った。
地下4階。
扉が、開かなかった。蝶番が錆びて固まっている。閉じたのではなく、開けられていないのだ。
俺は掌を扉へ向けた。
陣が1枚。
闇が蝶番へ流れて、錆と金属の境目を舐めた。支えを失った扉が、内側へ倒れた。埃が、胸の高さまで舞い上がった。
灯りをかざした。部屋は狭かった。棚が4つ。地上の講堂には200人が座り、40冊の名が読み上げられていた。その同じ塔の底に、この部屋がある。
俺は棚に近づいた。
棚の前で、俺は一度だけ振り返った。自分の足跡が、扉から真っ直ぐこちらへ伸びている。30年、誰も降りていない。ハルダーはそう言った。
王家の書庫の扉は、鍵穴だけが磨かれていた。誰かが最近開けた跡だ。ここは逆だ。誰も開けていない跡が、床の埃にそのまま残っている。
隠されたものより、忘れられたものの方が探しにくい。
背表紙は、ほとんどが読めなかった。革が乾いて、文字が粉になって落ちている。指で撫でると、その粉が指紋の形に残った。
3つ目の棚の、下から2段目。そこに、紐で綴じただけの束が並んでいた。
背表紙が無い。
(……見たことがあるな、この形は)
王家の書庫の、いちばん下の段。あの獣皮の束と同じ綴じ方だった。俺は1束を引き出した。表に、1行だけ書いてあった。
『降臨手順考。レント。』
俺は床に座り込んだ。
借りた魔石は暗い。指先に火魔法を灯して、頭の上へ放した。小さな火が、そこで止まった。棚と、床の埃と、俺の手元が、まとめて明るくなった。
開いた。最初の3枚で、書いた男が何者かが分かった。
レントは、俺と同じことを考えている。1枚目にこうあった。
——天使が地に降りたのなら、天使は移動したのである。移動には、必ずやり方がある。奇蹟という言葉は、やり方を知らぬ者が、知らぬままで済ませるために置いた蓋である。
(おい)
300年前だ。300年前に、この大学に、蓋を叩いた男がいた。
俺は読み進めた。レントは、まず降臨の伝承を全部並べていた。次に、そこから「移動」に関わる記述だけを抜いた。7つの候補地の伝承のうち、5つに共通する一節があった。
——天使は、歩いて来たのではない。
残る2つのうち1つにだけ、別の一節があった。移動には関わらぬとして、レントは欄外に小さく写しただけだった。
——天使は、咎ある者を討たず。足元より冷やして、連れて去る。
踵が冷えた。王家の書庫で、5枚目の線をなぞったときと同じだった。
(……連れて去る、だと?)
俺は連れて行かれてなどいない。死んで、ここへ落ちた。
爪の先で、欄外に筋を1本つけた。それから次の枚をめくった。
レントはそこから、人間界に残る移動の術を洗い出していた。馬。船。転送陣。これは荷を運ぶための古い仕掛けで、決まった2点の間しか繋がらない。今はもう作れる者がいない。
そして、空間魔法。
俺は指を止めた。
空間魔法。
エリシアが道中で言っていた。壁を越える、扉のない部屋へ入る。物語に出てくる古代の魔法。使えた者がいたという記録は残っているが、術そのものは失われている、と。俺はあのとき、それを聞き流した。人間界の内側を動く術だ。界を越える話とは、規模が違う。
だが、レントはこう書いていた。
——空間魔法と、界を越える術は、同じものの大小である。前者は室の内で歩き、後者は室そのものを跨ぐ。跨ぐには量が要る。人にはその量が無い。ゆえに人には前者しか使えぬ。
俺は、その1行を3度読んだ。
(……そうか)
俺は、階段を1段飛ばしていた。俺が探していたのは、界を越える術だ。それしか見ていなかった。前世で覚えなかったのもそれだし、天界へ行くのに要るのもそれだ。
だが、その下に段がある。同じ体系の、小さい方だ。人間でも使える大きさに切り分けられた、下の段。
下の段を知っている人間は、上の段の《《文法》》を知っている。
使えないだけだ。
俺には、魔力量がある。人間界の誰も持っていない魔力量が、この身体にはある。18年かけて、あの穴で積んだ。
俺に無いのは、書き方だ。
(揃うじゃねえか)
俺は、床の上で笑った。声が出た。地下4階の狭い部屋で、埃が跳ねた。
「クク……」
だが、笑いは長く続かなかった。
俺は束の残りを繰った。レントは、空間魔法の術式そのものを書いていない。というより、持っていない。彼が集めたのは、空間魔法が実在したという記録の断片だけだ。300年前の時点で、それは既に「失われた古代魔法」とされていた。
最後の1枚に、こうあった。
——余は、一人に会うた。
俺は火を手元へ引き寄せた。
——余は、一人に会うた。その者は室の内を跨いで見せた。余の目の前でである。ゆえに術は失われておらぬ。伝える者が減っただけである。
——その者は名を告げず、住まいを告げず、書き残すことを禁じた。守らねば見せぬと言うたゆえ、余はこれを守る。
——余の学は、ここで終わる。この先は、書物ではなく人に在る。
俺は、その束を閉じて、表に書かれた名を親指でなぞった。
300年前だ。
2000年ではない。300年前に、空間魔法を使える人間が、この大陸に生きていた。名も、場所も無い。だが、いた。
俺は立ち上がった。膝が鳴った。どれだけ座っていたのか分からない。頭の上の火が、拳ほどに小さくなっていた。
これで3度目だ。王家の書庫は空だった。この大学は、問いそのものを作っていなかった。そして300年前の男は、答えに触れて、書かなかった。
だが、前の2つとは違う。あれは行き止まりだった。ここは違う。
道は続いている。続いている先が、《《書物ではない》》というだけだ。
(……人か)
階段を上がった。地下3階まで来たところで、足を止めた。
俺の足跡が、往きと帰りで2本ある。そのあいだに、もう1本あった。
小さい。俺のより、ひとまわり小さい。
地下1階まで戻ると、灯りが1つ灯っていた。棚の脇に、娘が立っていた。灰色の前掛けをつけている。腕に、束を3つ抱えていた。
「お帰りなさいませ」
「レントの続き、こちらです」




