第29話 問いとして立たん
魔法史の講堂は、11本目の塔にあった。40年前に建った、いちばん新しい塔だ。魔法史というのは古い学問だろう。古い学問が、いちばん新しい建物に入っている。
「逆です」
トバイアスが言った。
「魔法史は、40年前に独立したんです。それまでは神学の一部でした」
「独立したのか」
「はい。だから塔が建ちました」
(——ほう)
俺は階段を上りながら、その意味を考えていた。神学から独立した。つまりこの大学は、40年前に「天使の話は信仰ではなく歴史だ」と決めたことになる。エリシアは言っていた。2000年前を本気で調べている者たちなら、おります、と。
◆
講堂は、擂鉢の形をしていた。中央に低い演壇。そこを囲んで、席が上へ上へと段になっている。200は座れる。実際、8割は埋まっていた。1年生の必修だが、上の学年も混じっている。単純に、この講義が人気らしい。
演壇に、老人が立っていた。背が低い。白い髪が薄い。杖をついている。だが声は、いちばん上の段まで届いた。
「2000年前」
「この地に、翼のあるものが降りた」
俺は最上段の隅に座って、それを聞いていた。
老人の話は、丁寧だった。降臨の日付。西暦の起点がそこに置かれていること。降りた場所とされる候補地が、五大国に7つあること。そのうち3つは近年の発掘で否定されたこと。授けられたとされる六属性の順序が、地域によって違うこと。
資料の数が、桁違いだった。王家の書庫には十数冊しかなかった。この老人は、講義1回で40冊の名を挙げた。
(……ちゃんとやってやがる)
この連中は、御伽噺だと言って笑ってはいない。年表を作り、突き合わせ、間違いを削っている。王都の学者は「本気にしていない」と言った。あれは王都の話だった。
だが、聞き続けているうちに、気持ちが冷えてきた。1刻聞いて、ようやく理由が分かった。
この老人は、いつ、どこで、何を、しか喋っていない。
降りた年。降りた場所。授けた属性。授けた順序。祀り方の変遷。全部揃っている。
ひとつだけ無い。
どうやって降りたのか。
講義が終わりかけたところで、俺は手を挙げた。周りが、一斉にこちらを見た。この講堂で手を挙げる人間は、たぶん珍しい。
「そこの」
「1年生か」
「そうだ」
「よろしい。この講義で手を挙げた1年生は、20年ぶりだ」
「訊きたい。その天使は、どうやってここまで来た」
講堂が、静かになった。静かになった質が、妙だった。驚いた静かさではない。
困った静かさだ。
「……ふむ」
老人は、杖を持ち替えた。
「言い換えよう。天がどのようにして地へ移ったか。それを訊いておるのだな」
「そうだ」
「それは、問いとして立たん」
「なぜだ」
「降臨は、奇蹟だからだ」
「奇蹟には手順が無い。手順があるものを、我々は奇蹟と呼ばん」
(……そういうことか)
この大学は、神学から独立して、年表を作った。突き合わせて、間違いを削った。40冊を並べた。
だが、独立するときにひとつだけ持ってきている。
《《降臨は奇蹟である》》という前提だ。
その1本の柱の上に、300年ぶんの学問が建っている。柱を疑うと、上に載っているもの全部が落ちる。だから誰も、そこを叩かない。
王家の書庫は、空だった。ここは違う。ここには物が詰まっている。詰まっているが、《《その1つの棚だけ、最初から作られていない》》。
「先生。もうひとつ、いいか」
「どうぞ」
「あんたの学問は、いつ降りたか、どこへ降りたか、何を授けたか。そこまでは300年かけて詰めてある」
「その300年で、どうやって降りたかを訊いた奴は、1人もいなかったのか」
老人は、答えなかった。答えないまま、俺の顔を見ていた。それから、演壇の縁に両手を置いた。
「……本日は、ここまでとする」
学生が出ていった。200人が階段を降りていく音が、擂鉢の底で反響した。俺も立とうとした。
「そこの1年生」
俺は足を止めた。講堂には、老人と俺しか残っていなかった。老人は、杖をついたまま、演壇の上から俺を見上げていた。
「名を」
「ゼノだ」
「家名は」
「無い」
「ふむ」
老人は、少しだけ笑ったように見えた。
「わしはハルダーだ。降臨史を50年やっておる」
「先生」
「まだ帰るな」
「さっきの問いだが。——1人もいなかったのか、と訊いたな」
「訊いた」
「いた」
俺は、階段を1段降りた。
「1人だけだ。300年前に、1人。この大学の学者だ。名をレントという」
「その男は、何を書いた」
「知らん」
「知らねえ、とは」
「読んだことが無い」
「わしは50年、降臨史をやっておる。レントの名を口に出したのは、今日が3度目だ」
「なぜ読まない?」
「読めんからだ」
ハルダーは、杖の先で床を一度突いた。
「あの男の書いたものは、降臨学の書庫の最下層にある。禁書ではない。閉じてもおらん。誰でも降りられる」
「だが、あそこへ降りた者は、この30年で1人もおらん。必要が無い、と言われておる。奇蹟には手順が無い。手順を探した男の書いたものに、学問上の用は無い。——わしは、そう習った」
俺は、その言い方に引っかかった。習った、と言った。
思う、とは言わなかった。
「先生。あんた、その柱を一度でも叩いたことがあるか?」
老人は、答えなかった。答えないまま、杖をついて演壇を降りた。俺の横を通り過ぎるとき、こちらを見ずに言った。
「最下層は、灯りが無い。自分で持って行きなさい」
俺は講堂に1人残された。最上段から、擂鉢の底を見下ろした。200の席が、全部空いている。この席は明日も埋まる。座った連中は、いつ降りたかを覚えて、どこへ降りたかを覚えて、卒業していく。
その全員が、ひとつの問いを持たずに出ていく。
(……たいしたもんだ)
ひとつだけ蓋をして、その上に300年ぶんを建てた。柱に触らずに建て続ける建て方を、こいつらは知っている。だが俺が欲しいのは、その柱の下だ。
階段を降りかけたところで、最前列に人が残っているのに気づいた。娘だった。20を少し越えたくらい。目を細める癖がある。机の上に獣皮の紙が山になっていた。
まだ書いている。
俺は横を通り過ぎながら、その紙を見た。講義の書き取りではなかった。
書いてあるのは、俺が喋ったことだった。
——どうやって降りたのか。問いとして立たん。奇蹟には手順が無い。300年で、1人も訊いていないのか。
一言一句、順番どおりに。
「あんた」
「はい」
娘は、まだ書いている。
「講義は取らねえのか?」
「講義は覚えています」
「……12年、聞いています。中身は、毎年同じで。今日は——」
羽根ペンの先が、獣皮に引っかかった。娘はそれを直して、続きを書いた。
(……12年)
俺は娘の顔を見た。12年前なら、まだ子供だろう。
「あんた、いくつだ」
「22です」
「10で講義に出てたのか」
「父に連れられて」
「父は、先生の前の代の助手でした」
娘は、そこでようやく羽根ペンを置いて、俺を見上げた。
目が、妙だった。怯えていない。値踏みもしていない。
「ミルカです」
「先生の弟子です。1人しかいませんので、弟子と言えば、わたしのことです」
「そうか」
「あの」
「なんだ」
「あなたの陣を、見せてください」




