第28話 刻みが1つ多い
寮は、塔の下に横たわる長い建物だった。1人に1部屋。ベッドと、机と、窓。王宮の東棟とほとんど同じ作りだ。違うのは、隣の部屋の音が抜けてくることだった。夜になると、壁の向こうで誰かが本を落とす。誰かが唸る。誰かが笑う。あの穴で18年、俺が聞いていたのは水の滴る音だけだ。
(……うるせえな)
◆
食堂は、寮の一階にあった。朝と夕に、麦のパンと、豆と塩漬け肉のスープが出る。あの村で初めて食ったものと、ほとんど同じだ。違うのは、量が多いことと、誰も俺の隣に座らないことだった。3日目の朝、長机の端に1人で座っていると、向かいの席が3つ、最後まで埋まらなかった。
(……ふん)
王宮でも同じだった。あそこでは俺は東棟に置かれた。どこにも属さない者を置く場所だ。ここでは、俺の周りに勝手に東棟ができる。
◆
4日目の朝、その東棟が崩れた。スープの椀が、目の前にもう1つ置かれた。
「はい、おかわり」
娘が立っていた。
前掛けをつけている。腕まくりをしていて、肘まで濡れている。18かそこらだろう。俺の顔を、まっすぐ見ていた。俺より頭ひとつ低い。髪は明るい亜麻色で、布で包んである。包みきれなかった分が、耳の後ろに落ちていた。前腕が、左右とも同じ太さだった。リィナは右だけが太い。剣を右で振るからだ。こっちは、重いものを両手で抱える。
「——頼んでないが?」
「昨日3杯飲んでたでしょ。3杯目なんか鍋の底のとこ。焦げてて誰も取らないのに、あんただけ取った」
声が大きい。長机の端から端まで届く声だった。椀を置いた手は赤く荒れていて、指の節だけが白く乾いていた。
「先に持ってきた方が早いでしょ」
俺は椀を見た。湯気が立っている。塩と、脂と、火の匂い。
「あんた、俺が誰か知ってるのか?」
「知ってる」
「じゃあ、なんで近づく?」
娘は、スープの鍋を抱え直した。
「魔王がスープを3杯おかわりするわけないでしょ」
俺は、娘を見た。この半年で、俺を魔王だと言った人間は数え切れない。誰ひとり、俺の飯の食い方を根拠にしなかった。
「名は」
「ポーラ」
「学生じゃねえな」
「厨房。3年目」
言いながら、娘はもう次の机の方へ半分向いていた。
「あんたの椀、空になるの早いから。覚えた」
「ポーラ! いつまで喋ってんだ、鍋が冷める!」
厨房の奥から、太い声が飛んできた。
「冷めてない! 今持ってったばっかり!」
叫び返してから、娘は次の机へ行った。向かいの席は、その日も埋まらなかった。だが椀は2つになった。
リィナの立場は、初日から宙に浮いた。ヴァリス王女の護衛として、ここに来ている。だが大学の中には近衛の詰所も、騎士団も無い。守るべき主人は上級生用の別棟にいて、そちらには専属の侍女がついている。リィナには、やることが無い。
「ゼノ」
3日目の朝、リィナは俺の部屋の扉の前に立っていた。
「どうした?」
「……お部屋を、掃かせていただきました」
「掃くほど汚れてねえだろ」
「はい。ですので、2度掃きました」
「エリシア様のお部屋には、入れていただけませんでした。専属の侍女がおりますので、と。……わたしは護衛です。侍女ではありません」
誰に向けて言っているのか分からない声だった。俺は部屋を見た。床が光っている。窓枠に埃が1つも無い。ベッドの毛布が、角を合わせて折り畳んである。
「大学に、剣を教える場所はあるか」
「……ありません。ここは魔法の大学ですので」
「無いなら、作れ」
彼女は、目を丸くした。
「作る、とは」
「この大学の連中は、魔法しか知らねえ。陣を組む前に殴られたら、それで終わりだ」
「あんたは、剣を握って人を殺したことがある。この街で、それができる人間は何人いる」
「……多くは、ないと思います」
「なら、教えられる」
リィナは、目を伏せた。
「わたしに、人を教えることは」
「型を1つ覚えるのに3年かかったと言ったな」
「……覚えて、おられたのですか」
「かかった奴の教え方は、丁寧だ」
「すぐできた奴は、できない理由が分からねえからな」
「この大学で、それができるのはあんただけだ」
◇
——剣を教える場所を作れと言われて、わたしは、その場で返事ができませんでした。
わたしは、剣が速い方ではありません。筋も良くありません。
ずっと、それを恥だと思ってきました。あの方は、それを使えと仰います。
あの方が出ていかれた後、わたしは、掃いたばかりの床をもう一度掃きました。3度目です。箒を動かしていないと、顔が勝手に緩んでしまうのです。
◆
5日目の朝、俺の部屋の扉が2度鳴った。
先に来たのはリィナだ。箒を持って入ってきて、前と同じところを掃き始めた。
次は、返事を待たずに開いた。
ポーラが、椀を両手で持って立っていた。湯気が出ている。
「はい、おかわ——」
箒が止まった。
娘が2人、扉の内と外で向き合った。ポーラの方が頭ひとつ低い。見上げる形になって、それでも椀を引っ込めなかった。
「……食堂の方ですね」
「うん。ポーラ」
「ここは、寮の部屋です」
「知ってる。朝は椀を回収するから」
「回収は、空の椀です。それは、入っています」
ポーラは椀を見て、それからリィナを見た。
「この人、3杯飲むよ」
「……はい」
「塩は濃い方が好き。薄いと、2杯目から手が遅くなるの」
リィナは箒の柄を持ち直しただけだった。
「……わたしは、薄い方をお出ししておりました」
「じゃあ、だから遅かったんだ」
俺は椀を受け取った。塩と、脂と、火の匂いがした。飲んだ。
2人が、同時にこちらを見た。
「うまい」
言ったあとで、部屋の中の何かが下がったのが分かった。何が下がったのかは、分からなかった。
「ゼノ。掃きます」
「掃くほど汚れてねえだろ」
「掃きます」
箒が床を擦る音が大きくなった。ポーラは扉の枠に手をかけたまま、その音を聞いていた。
「……あの人の掃いたとこ、床が光ってない?」
「光ってる」
「毎日掃いてるの?」
「らしいな」
ポーラは、何も言わずに扉を閉めた。出がけに、机の上の空の椀を1つ持っていった。昨日の分だ。持っていく手が、少し速かった。
講義が始まった。
1年生の必修は、4つある。魔力の制御、六属性の基礎、術式の読み書き、それから魔法史だ。最初の3つは、俺には学ぶものが何も無かった。魔力の制御は、器の中で魔力を回す訓練だ。俺が毎晩やっていることの、たぶん百分の一の負荷しかない。六属性の基礎は、火をつけて水を出して土を盛る。術式の読み書きは、初級の陣を紙の上で書き取る。
3日で全部片付いた。
問題は、片付いたことが伝わってしまったことだった。
◆
4日目の術式の講義で、教師が黒板に中級の陣を1つ描いた。
「これを、写しなさい」
50人が羽根ペンを取った。俺は写した。途中で、手が止まった。
外側の円の刻みが、1箇所ずれている。このまま組めば、2枚目が1枚目に噛まずに滑る。撃てないわけではない。撃てるが、威力が半分になって、余った分が術者の腕に返る。
俺は手を挙げた。
「先生」
「なんだ」
「その陣、右下の刻みが1つ多い」
羽根ペンの音が、一斉に止まった。教師は40くらいの男だった。中級の術者らしい。黒板を振り返って、自分の描いた陣を見た。それから俺を見た。
「……写しなさいと言った」
「写したが」
「ならば、それでよろしい」
「よろしくねえが?」
「これで組んだ奴の腕が焼ける」
教師の顔が、赤くなった。
「1年生が、術式の是非を語るな」
「じゃあ、誰が語る」
「——」
「あんたが黒板に描いたものを、この50人が疑わずに写した」
「疑わなかったのは、あんたが上だからだ。あんたが間違えたら、50人が間違える。それが大学の仕組みなら、俺は仕組みの方が間違ってると思うが」
教師は、何も言わなかった。そのまま黒板に向き直って、右下の刻みを1つ消して、こちらを見ずに言った。
「……写しなさい」
講義が終わってから、隣の席の男が話しかけてきた。小柄で、目の下に隈がある。羽根ペンを3本、机に並べていた。
「あの、今のは、どこで気づいたんですか」
「見れば分かる」
「分かりません」
「僕は3年、術式だけをやっています。あの刻みは、写して、組んで、失敗して、初めて分かるものです」
「俺は、あの陣を一度も組んでねえ」
俺は、男を見た。
「あんた、3年で何回組んだ?」
「……4000回ほど」
「4000」
男は少し俯いた。
「才が無いので、数で埋めています」
(——ほう)
俺と同じことをしている。
あの穴で、俺は蟲を殺し続けた。何百体目かは覚えていない。何千体目かも分からない。数える意味が無かったからだ。こいつは数えている。4000と正確に言った。
「名は」
「……トバイアスです。3年生です。この講義は、単位を落として2度目で」
「トバイアス。4000回組んだなら、あの刻みは手の方が先に知ってる。頭が追いついてねえだけだ」
男は、俺の顔を見た。それから、羽根ペンを1本落とした。
「……あの。僕でよければ、案内します」
「この大学は、初めての人には無理です。地図が無いので」
「無いのか」
「作られたことが、たぶん一度もありません」
◆
その日の夕方、俺はトバイアスに連れられて、東の塔の受付へ戻った。名簿をつけていた、あの痩せた男のところだ。
「あんた、この大学の書庫は、どこだ」
男は、羽根ペンを置いた。
「どちらの、でしょうか」
「どちら?」
「書庫は、11ございます」
「塔の数だけ、ございます」




