第299話 行き先は、毎朝言う
名簿の行を、俺は、自分で書くと言った。
リィナは、羽根ペンを持ったまま動かなかった。5年、この女は、俺が字を書くのを2度しか見ていない。2度とも、下手だった。1度目は4年前の借用書で、2度目は去年の、行き先を書かなかった紙だ。
「ゼノ様。……わたしが書きます」
「俺が書く」
「字が」
「下手だな」
ローデン砦の中庭で、卓を1つ出した。
壁は、まだ7分だ。積み上がった石垣の上に、縄が渡してある。積んでいるのは、砦の兵と、麦の村の連中と、隣の村の連中だ。隣の村とは、去年まで麦の取り分で揉めていた。いまは、同じ石を持っている。
鐘が、正午に7つ鳴った。
7つなのは、三界が同じ晩に俺を呼んだ、あの刻限の数だ。誰かが、そのまま7つにしたらしい。直す者が、いない。
1行目に、俺は「ゼン」と書いた。
字が傾いた。ミトの字を手本にしたせいだ。12のやつの字は、全部少し傾いている。
卓の上の黒いやつが、その2文字の上に乗った。
そのまま、動かなくなった。2文字が、隠れて読めなくなった。
2行目に、俺は「ゼノ」と書いて、しばらく見ていた。4年前に捨てた名の代わりに、自分で決めた3文字だ。決めたとき、俺はこれを、仮のものだと思っていた。人間界にいる間だけの名だと思っていた。
7000年生きて、名前を仮で使ったのは、これが初めてだった。
3行目には、何も書かなかった。書く名が無いんじゃない。誰が来るか、まだ決まっていない。砦の名簿の空欄は、埋めるものだと、俺は4年前に思っていた。いまは、そう思わない。
「リィナ」
「はい」
「3行目、空けとく」
「……空けておきます」
「誰か来たら、あんたが書け」
俺は、声に出して名乗ることにした。
1年と48日、縁の中で、俺は自分の名を言えなかった。名乗れない場所だったからだ。上がってから、まだ一度も、自分から名乗っていない。名乗る機会が無かったのではない。試していなかった。
「——ゼノだ」
言えた。
言えたが、半分だった。頭の1文字が、卓の上の黒いやつの方へ行ったのが、自分で分かった。2文字目から言い直すことは、しなかった。
リィナが、名簿を閉じかけて、やめた。
それから、俺の書いた2行を指でなぞった。「ゼノ」の2文字目で指が止まる。そこだけ、インクが濃い。
「ゼノ様。ここ、押さえすぎです」
「押さえすぎか」
「1年、わたしの字も、こうなりました」
「見せろ」
女は、自分の掌を、卓の上に開いた。
1年48日、縄を引いた掌だ。皮が、5回剥けた。5回目は、最後に離したときだ。いまは、上から薄い皮が張って、下の硬いのが透けている。
比べるために、俺はその掌へ自分の掌を重ねた。4年前、俺の掌には胼胝が1つも無かった。いまも無い。7000年、俺は物を持たずに生きてきた。
「……硬えな」
「硬いです」
「俺は、柔らけえ」
「知っています」
リィナが、そこで、掌を返して、俺の手を、下から握った。握り方が、下手だった。指が4本しか曲がらない。縄を引いている間に伸びたままになった薬指が、俺の手の甲に、真っ直ぐ当たっていた。
「ゼノ様」
「なんだ」
「この指は、たぶん、治りません」
「医者には、見せたのか?」
リィナは、握った手を緩めなかった。
「治らない方が、忘れなくて済みます」
「忘れるな。けど、治らねえ方がいいなんて言うな」
リィナが目を見開いた。
「痛えなら痛えと言え。俺の前でまで、平気な顔をするな」
「……はい」
握られた手を、俺は引かなかった。4年前なら、別の用事を作って逃げていた。今日は、その必要が無かった。
次の用事は、昨日の晩に決めた。
白紙の上に、俺は1行だけ書いた。
ポーラが持ってきた紙だ。裏に、丸が5つ描いてある。表の白いところに、俺は、こう書いた。
——行き先は、毎朝言う。
書いた紙を、俺は、ヴェルナに渡した。
この女は、両手を出して受け取り、字を読んだ。読み終えても、紙から目を離さなかった。それから、紙を、袖の内側へ入れた。
「我が君。これは、命令でございますか」
「違う」
「では、何でございましょう」
「……約束だ」
ヴェルナは、それを聞いて、頭を下げた。
頭が、いつもより低かった。7000年、この女の礼は、角度が決まっている。それより深いのは、初めてだ。深い分だけ、時間がかかった。
上げた顔を、俺は見なかった。
その日の夕方、壁の7分目に、石が1つ載った。
隣の村の男が載せた。こっちを見て、何か言った。風で、聞こえなかった。俺は、そいつのところまで歩いていった。
「どうした」
「……あんた、ここに住むのか?」
「住まねえ」
「そうか」
「毎朝、行き先を言う。……聞きたきゃ、朝、井戸の前に来い」




