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第300話 並べ

最初に来たのは、匂いだった。


麦と、湿った土と、焼けた石。3つが混ざって、喉の奥に入ってくる。10年前、俺が最初に嗅いだのは、鉄と、湿った土と、腐りかけた肉だった。混ざり方は似ている。中身が、2つ入れ替わった。


井戸の前に、人が立っている。


数は、日によって違う。いちばん多かった日で、200を超えた。今日は9人だ。昨日の雨(あめ)で、朝の畑仕事が遅れている。畑の方が先だと、俺は言ってある。


それでも、9人来た。そのうちの4人は、鍬(くわ)を持ったままだ。


「ゼノさん。今日、どこですか」


訊いたのは、ミトだ。


18になった。背が、リィナの肩まで来る。手に、板を持っている。板は、あの頃のものじゃない。3枚目だ。1枚目は雨で腐って、2枚目は火にくべた。


その日に、この村は、当番を終わりにした。


「今日は、砦だ」


「何しにですか?」


「3行目が、埋まった」


「誰ですか?」


「知らねえ。リィナが書いた」



ミトは、板に、それを書き取った。


書き取り方が、去年から変わった。行き先だけじゃなく、用件も書くようになった。字は、まだ傾いているが、速くなった。速く書ける字は、傾いていても読める。


「ゼノさん。明日は?」


「王都だ」


「その次は?」


「決めてねえ」


「じゃあ、決まったら言ってください」



決めていない日が、月に4日か5日ある。


6年前、決めていない日を作るのが怖かった。そんな日に、誰かが俺を数え損なう気がしていた。いまは、数え損なわれても、次の朝に来ればいい。


砦の壁は、もう積み終わっている。


そのあとで、鐘を1つ増やした。いまは、8つ鳴る。8つ目は、麦の村の分だ。誰が決めたのか、俺は知らないまま、8つ鳴るのを、毎日どこかで聞いている。


3行目に書いてあったのは、隣の村の男の下の子だった。


字は、リィナが書いた。指は、まだ4本しか曲がらない。


天界の柱は、11本下ろした。


残りの27本は、そのままにしてある。途中でアステリアが、やり方を変えた。柱を無くすかわりに、柱に読み上げさせる名を、3つの界で共有することにした。


共有する帳面の1冊目を書いたのは、ザリエルだ。


翼が1枚の男は、いまも床を押して歩いている。娘が、横を歩いている。歩幅を、娘の方が合わせている。



セイルの机は、まだ傾いている。直せば、21年分の窪みが合わなくなる。あの男は、40枚目まで写した。それを、誰も読まない。


テオは、穴を開けるのをやめた。


いまはラセルにいる。あそこで暮らす子供は22人になった。増えた分の飯のために、ポーラが月に一度、麦を持っていく。


俺の行き先を知りたがる者は、増えた。


ヴェルナは毎朝、井戸まで聞きに来る。7000年続けた留守番は、行き先を書き留める係に変わった。フィーネは聞きもせずに先回りし、外した日は何食わぬ顔で俺の部屋にいる。シャルは黒鎖教団の名簿へ自分の名を残し、命令が無い日も戻ってくる。


記録する者もいる。


エリシアの帳面は6冊目だ。俺が王都にいる日の行は短く、いない日は長い。一度だけ覗くと、俺の名前は2文字だった。頭の1文字を、この女は6年、一度も書いていない。


ミルカの記録には「大悪魔の複数関係における意思決定の欠陥」という題が付いた。燃やそうとするたび、写しが増える。


天界では、セレスティアが自分の足で歩いている。髪を結うのはいまもアステリアの分だけで、ザリエルの分はまだ結わない。


ヴェルナの袖には、行き先を書いた紙が6年分入っている。


一度、何枚あるか訊いた。


「2180枚でございます」


「多いな」


「1日も、抜けておりません」



黒いやつは、砦にいる。


名簿の1行目に名前がある。ゼン、という。12の子供が付けた2文字だ。壁の上に乗って、日が落ちるまで動かない。砦の兵は、それを見張りの1人に数えている。


数えている限り、こいつは消えない。


俺の名前の頭の1文字は、いまもそっちにある。返せとは言っていない。


「ゼノさん」


ミトが、板を胸に抱えて言った。


「1回で返事しましたね」


「したか?」


「しました。……去年まで、1つ遅れてました」



俺は、井戸の縁に腰を掛けた。


しばらく考えたが、分かったふりはしなかった。1文字は、いまもゼンが持っている。だから、返事が早くなる理由は無い。


それでも、早くなった。理由の無いことが起きるのは、7000年でも、そう何度も無い。


「ミト」


「はい」


ミトは、板を持ち替えた。


「お前、いま、どう呼んだ」


「ゼノさん、って呼びました」


「その前は?」


「……その前も、ゼノさんです」



俺は、少し笑った。答えが出た。


6年、この村は、俺の名前を毎日呼んでいる。呼ばれ続けている名前は、1文字足りなくても形になる。足りない分を、呼ぶ側の方が埋めている。


7000年、俺は、誰にも呼ばれなかった。



井戸の縄を、癖で1度引いた。1年48日、上から引かれ続けた縄の感触が、まだ掌に残っている。俺の掌には、いまも胼胝が1つも無い。7000年、物を持たずに生きてきた手だ。


その手で、今日から、板を1枚持つことにした。


ミトの3枚目が、そろそろ腐る。4枚目は、俺が削(けず)る。削り方を知らないので、グランに教わることにした。



朝の畑へ、9人が散っていった。


その前に、全員が一度、俺の方を見た。行き先を聞いた者は、その日、どこかで一度、俺のいる場所を思い出す。誰かが俺を思い出した朝が、人間界に2180日ぶん積み上がっている。


魔界と、天界にもいる。


俺は、井戸の縁から立ち上がった。


砦の方へ歩き出す前に、一度だけ、後ろを向いた。リィナがいた。6年前から、1歩半後ろだ。


「リィナ」


「はい」


「並べ」



女が、1歩半、前に出た。


俺の横に並んで、こいつは、何も言わなかった。黙ったまま、歩幅を、俺の方に合わせた。合わせ方が、下手だった。6年、後ろを歩き続けた者の合わせ方だ。


俺は、歩幅を半分だけ狭めた。


「お待ちくださいませ!」


王都へ戻ったはずのエリシアが、6冊目の帳面を抱えて走ってきた。


「待ちなさいな。今日は、わたしの番ですわ」


フィーネが追い越し、俺の前へ回った。シャルは黒鎖教団の名簿を胸に抱いている。ポーラは全員分の鍋を持ち、アステリアはその鍋を翼で支えていた。


ユーリカだけが、少し離れたところで足を止めた。


「ゼノ。……あのときは、悪かった」


「あのときって、どれだ?」


「今それ訊く!? せっかく謝ったのに!」


怒鳴りながら、こいつも走ってきた。


リィナが、初めて俺の歩幅が変わったことに気づいた。


「ゼノ様。狭すぎます」


「うるせえな! 全員で来るとは聞いてねえ!」


「昨夜、全員と仰いました」


「言った。覚えてる。……だから置いていかねえ。さっさと並べ!」


道いっぱいに、足音が並んだ。


今度は、誰も俺の後ろを歩かなかった。

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