第297話 7000年で初めての「いいえ」
我が君は、広間の扉から入っていらっしゃいませんでした。
地下の泉から、お上がりになりました。1年、わたしが椅子を置いて呼んでおりました場所でございます。上がってこられたとき、撥ねた水が、わたしの裾に掛かりました。
この方が、水音を立ててお戻りになったのは、7000年で初めてでございます。
いつもは、音を立てずにお出になりました。
「ヴェルナ」
「我が君」
「1年、留守番か」
「いいえ。……最後の晩だけ、留守番を致しませんでした」
「聞いた。下から呼んでたな」
わたしは、お答えができませんでした。
聞こえていたのです。298人の声と、わたしの声を、この方は、下で聞き分けておられました。
「ヴェルナ。お前、名前の前に何か付けたろ」
「……付けました」
「何を付けた?」
「申し上げません」
我が君は、それ以上お訊きになりませんでした。
そのまま、広間の方へ歩いていかれました。わたしは、3歩後ろを歩きました。7000年、この距離でございます。歩きながら、この方の足元に、黒い小さいものが付いてくるのが見えました。
あれが、1文字持って行った方でございます。歩き方が、我が君と同じ癖でございました。
広間の玉座に、黒い糸が結んでございます。
1年前、穴から落ちてまいりました糸でございます。背もたれの、いちばん上の桟に結びました。結び目は、風に飛ばされぬよう、固くしてございます。
我が君は、それを、しばらくご覧になりました。
「これ、俺のだな」
「左様でございます」
「1年前のか?」
「はい。……縫っておいでのときに、落ちたものかと存じます」
「解いていいか」
「……いいえ」
わたしは、そう申し上げてしまいました。
自分で、驚きました。7000年、わたしはこの方に「いいえ」と申し上げたことがございません。一度もでございます。命じられたことは全て致しました。命じられなかったことで、1つだけ、致さなかったことがございます。追うことでございます。
「なんでだ?」
「……解かれますと、1年が、無かったことになります」
我が君は、玉座の前で、足を止められました。
座面の窪みを、ご覧になりました。7000年、この方が浅く腰を掛け続けた跡でございます。窪みの形に、誰も入りませんでした。月に一度、10日に一度、座らせてみましても、みな3つ数える前に立ちました。
「ヴェルナ。ここ、誰か座ったか」
「73人、座らせました」
「73人か」
「1人も、保ちませんでした」
この方は、玉座にお座りになりませんでした。
床に、そのまま腰を下ろされました。玉座の横でございます。背中を、玉座の脚に凭れさせました。1年、地面に座る場所しか無い所においででしたので、その方が楽なのだそうでございます。
わたしは、立ったままでおりました。7000年、この広間で座ったことがございません。
「ヴェルナ」
「はい」
「座れ」
「……どちらに」
「どこでもいい」
わたしは、玉座に座りました。
座ってしまってから、これは大変なことをしたと思いました。7000年、わたしはこの椅子の横に立つ係でございます。座る係ではございません。座面が、冷とうございました。
「冷てえだろ」
「冷とうございます」
「7000年、俺はそこに浅く座ってた。……深く座ると、立つのが遅れる」
「存じております」
「知ってたのか?」
「存じておりました。……ですから、わたしは、いつでも走れる履物で参りました」
我が君は、そこで、少しお笑いになりました。
この方が笑われた回数を、わたしは数えております。これが3度目。1度目は3000年前、2度目は、人間界から戻られた日でございました。
「ヴェルナ。あんた、俺に何かしてほしいことはあるか」
わたしは、その問いを、7000年待っておりました。
それなのに、答えを用意しておりませんでした。手元にございましたのは、報告と、留守の間の帳簿だけでございます。口から出ましたのは、こういう言葉でございました。
「……次に、どこかへ行かれるときは、先に仰ってくださいませ」
「それだけか」
「それだけでございます」
我が君は、床に座ったまま、少し考えておられました。
指で床を2度叩いてから、こう仰いました。
「明日、王都へ行く」
「……はい」
「その次の日は、砦だ。その次は、麦の村へ戻る」
「承りました」
「その次は、まだ決めてねえ」
わたしは、玉座から立ち上がりました。
背もたれの黒い糸を、指で1度撫でて、結び目を、少しだけ緩めました。解きはいたしません。緩めておけば、風で揺れて、生きているように見えます。
「我が君。行き先を聞くのは、7000年で初めてでございます」
「そうか」
「はい。……これからは、毎日、伺います」




