↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
297/300

第297話 7000年で初めての「いいえ」

我が君は、広間の扉から入っていらっしゃいませんでした。


地下の泉から、お上がりになりました。1年、わたしが椅子を置いて呼んでおりました場所でございます。上がってこられたとき、撥(は)ねた水が、わたしの裾に掛かりました。


この方が、水音を立ててお戻りになったのは、7000年で初めてでございます。


いつもは、音を立てずにお出になりました。


「ヴェルナ」


「我が君」


「1年、留守番か」


「いいえ。……最後の晩だけ、留守番を致しませんでした」


「聞いた。下から呼んでたな」



わたしは、お答えができませんでした。


聞こえていたのです。298人の声と、わたしの声を、この方は、下で聞き分けておられました。


「ヴェルナ。お前、名前の前に何か付けたろ」


「……付けました」


「何を付けた?」


「申し上げません」



我が君は、それ以上お訊きになりませんでした。


そのまま、広間の方へ歩いていかれました。わたしは、3歩後ろを歩きました。7000年、この距離でございます。歩きながら、この方の足元に、黒い小さいものが付いてくるのが見えました。


あれが、1文字持って行った方でございます。歩き方が、我が君と同じ癖でございました。


広間の玉座に、黒い糸が結んでございます。


1年前、穴から落ちてまいりました糸でございます。背もたれの、いちばん上の桟(さん)に結びました。結び目は、風に飛ばされぬよう、固くしてございます。


我が君は、それを、しばらくご覧になりました。


「これ、俺のだな」


「左様でございます」


「1年前のか?」


「はい。……縫っておいでのときに、落ちたものかと存じます」


「解いていいか」


「……いいえ」



わたしは、そう申し上げてしまいました。


自分で、驚きました。7000年、わたしはこの方に「いいえ」と申し上げたことがございません。一度もでございます。命じられたことは全て致しました。命じられなかったことで、1つだけ、致さなかったことがございます。追うことでございます。


「なんでだ?」


「……解かれますと、1年が、無かったことになります」



我が君は、玉座の前で、足を止められました。


座面の窪みを、ご覧になりました。7000年、この方が浅く腰を掛け続けた跡でございます。窪みの形に、誰も入りませんでした。月に一度、10日に一度、座らせてみましても、みな3つ数える前に立ちました。


「ヴェルナ。ここ、誰か座ったか」


「73人、座らせました」


「73人か」


「1人も、保ちませんでした」



この方は、玉座にお座りになりませんでした。


床(ゆか)に、そのまま腰を下ろされました。玉座の横でございます。背中を、玉座の脚に凭(もた)れさせました。1年、地面に座る場所しか無い所においででしたので、その方が楽なのだそうでございます。


わたしは、立ったままでおりました。7000年、この広間で座ったことがございません。


「ヴェルナ」


「はい」


「座れ」


「……どちらに」


「どこでもいい」



わたしは、玉座に座りました。


座ってしまってから、これは大変なことをしたと思いました。7000年、わたしはこの椅子の横に立つ係でございます。座る係ではございません。座面が、冷とうございました。


「冷てえだろ」


「冷とうございます」


「7000年、俺はそこに浅く座ってた。……深く座ると、立つのが遅れる」


「存じております」


「知ってたのか?」


「存じておりました。……ですから、わたしは、いつでも走れる履物で参りました」



我が君は、そこで、少しお笑いになりました。


この方が笑われた回数を、わたしは数えております。これが3度目。1度目は3000年前、2度目は、人間界から戻られた日でございました。


「ヴェルナ。あんた、俺に何かしてほしいことはあるか」



わたしは、その問いを、7000年待っておりました。


それなのに、答えを用意しておりませんでした。手元にございましたのは、報告と、留守の間の帳簿だけでございます。口から出ましたのは、こういう言葉でございました。


「……次に、どこかへ行かれるときは、先に仰ってくださいませ」


「それだけか」


「それだけでございます」



我が君は、床に座ったまま、少し考えておられました。


指で床を2度叩いてから、こう仰いました。


「明日、王都へ行く」


「……はい」


「その次の日は、砦だ。その次は、麦の村へ戻る」


「承りました」


「その次は、まだ決めてねえ」



わたしは、玉座から立ち上がりました。


背もたれの黒い糸を、指で1度撫でて、結び目を、少しだけ緩(ゆる)めました。解きはいたしません。緩めておけば、風で揺れて、生きているように見えます。


「我が君。行き先を聞くのは、7000年で初めてでございます」


「そうか」


「はい。……これからは、毎日、伺います」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。