第296話 いる日の分
宰相府の扉は、外から開く。
4年前、この女が中から開けられずにいたのを見て、俺はそれを知った。父親の代からそうらしい。中の人間が、勝手に出ないための作りだ。今日も、門番が2人で外から押し開けた。
部屋の中で、女が立ち上がった。
速すぎて、机の角に腰が当たった。その拍子に、机の上の束が崩れた。この女は、それを拾わずに、俺の顔を見た。
「ゼノ様」
「おう」
「……1つ、遅れました」
俺は、足元を見た。
黒いやつが、俺の後ろにいる。名前を1文字持っていったやつだ。今日は、俺の影の中に入って、出てこない。人間の建物の中では、こいつは影から出ない。
「ゼン」
黒いやつが、影の中で動いた。返事の代わりらしい。
「1文字、こいつが持ってる。……返事が半分だ」
「では、あと1文字、どこにございますか」
「麦の村の子供が、付け足した」
エリシアは、それを聞いて、机の上の束を拾い始めた。
束を拾う手が、やけに速い。手を止めれば、何か余計なことを言ってしまう。4年前から、この女は、そうやって間を作る。その間で、政治の言葉を組み立てる。
今日は、組み立てが間に合わなかった。
「……ずるい」
「何がだ」
「その子は、名前を付けられました。わたくしは、1年、書いただけでございます」
「書いたのは、聞いた」
「413行でございます。……お戻りになった日まで、1日に、1行ずつ」
「3文字で書いた行は?」
「……201行目でございます」
俺は、机の上の帳面を、自分でめくった。
201行目に、3文字ある。そこだけインクが濃い。前後の行は、全部同じ薄さで、同じ幅だった。
最初から、めくり直した。413行ある。1日も飛んでいない。
「エリシア」
「はい」
「あんた、去年の冬、熱を出したろ」
「……なぜ、ご存じですか」
「ここだけ、字が下がってる。3日分だ」
女が、黙った。
口を開いて、また閉じた。それを、3度やった。3度目で、出てきたのは、政治の言葉じゃなかった。
「……お見つけにならないでくださいませ」
「なんでだ?」
「その3日は……書いた、というだけでございます」
「書いてあるじゃねえか」
「はい。……ですから、いちばん、見られたくない3行でございました」
俺は、こいつを安心させるつもりだった。
なのに、口から出た言葉は、頭の中と逆になった。
「俺の名前は、あんたのおかげで戻ったわけじゃねえ」
女の肩が下がった。そこで、言い方を間違えたと気づいた。413行は、柱に届いていないのに、こいつは1年書いた。
届かないものを、俺は7000年、いちばん軽く見てきた。
「……そうじゃねえ。柱は、声しか数えねえ。あんたの413行は、1つも数に入ってねえ」
「存じております」
「入ってねえのに、書いたろ」
「書きました」
「それが、俺には、いちばん分からねえ」
エリシアは、そこで、初めて笑った。
笑ったのに、目の下が濡れていた。この女がそうやって笑うのを、俺は3度見た。1度目は父親の部屋で、2度目は引き渡し要求を隠していたのがばれたときだ。3度目が、今日だ。
「ゼノ様。分からなくて、けっこうでございます」
「そうか」
「わたくしは、あなた様に分かっていただくために書いたのではございません」
「じゃあ、何のために書いた?」
「……1日が、終わらないからでございます」
すぐに分かったふりをするのは、やめた。4年前、それを繰り返すたび、この女の話が短くなったからだ。
だから、俺は、帳面を閉じた。その音が、思ったより大きく鳴った。
机の上に置いてから、こう言った。
「今日の分は、まだ書いてねえな」
「……はい」
「書け」
「何と書けばよろしいですか?」
「知らねえよ。……俺は、1年、下にいた」
エリシアは、羽根ペンを取って、414行目に、何か書いた。その間、俺は窓の外を見ていた。窓の下の町に、64か所の窓が開いた晩の跡が、まだ残っている。鉢だ。あの晩、窓辺に鉢を出した家が、そのままにしている。
書き終わった帳面を、この女は、俺に見せなかった。
引き出しへ入れて、鍵を掛けた。
「ゼノ様。これは、明日も書きます」
「1年、書いたろ」
「書きます。……あなた様が、いなくなった日のためではございません。いる日の分を、書いておりませんので」




