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第295話 ゼン、にします

井戸の縄は、去年より短くなっていた。


継いだ跡が、3か所ある。継ぎ方が、上と同じ縒りだ。1年、麦の村は、自分たちの井戸の縄を切って、上へ送っていた。その分だけ、こっちの釣瓶(つるべ)が、水面まで届きにくくなる。


浅い釣瓶で、水は汲める。


汲めるが、朝に2回往復することになる。


穴から下りると、最初に足の裏に来たのが、土の冷たさだった。


天界の床は、冷たくない。温かくもない。1年、俺は温度の無い場所にいた。麦の村の土は、朝、冷たく湿っているのに、上の方だけ、日に当たって乾いている。


井戸の前に、34人いた。ミトの板に書いてある数だ。


いや、34人じゃない。数えたら、61人いた。増えた分は、隣の村の連中だ。全員、穴の方を見上げて立っている。俺は、そいつらの真ん中に下りた。


誰も、気づかなかった。


上を向いている連中の間を、俺は歩いて、井戸の縁に腰を掛けて、誰か気づくのを待った。1年、待つのは得意になった。その間、連中は、まだ上を向いて、俺の名前を言っていた。


「ゼノさん」


言ったのは、いちばん小さいやつだ。声が、去年より低くなっていた。



ミトが、俺の横に立っていた。


背が、伸びた。去年、俺の腰より下だった。いまは、腰の骨のところまで来る。手に、木の板を持っている。板に、名前が書いてある。その字が、ところどころ、少し傾いていた。


「ゼノさん。今日、当番、わたしです」


「そうか」


「呼びました」


「聞いた」


「いま、下にいるのに、呼びました」



思わず笑った。こいつは、俺が下りてきても板の順番を守った。当番は当番だ。1年と48日、この村は、それで回ってきた。


「ミト。その板、見せろ」


「はい」



板には、61人の名前があった。


上から順に、字が傾いている。途中から、まっすぐな字が混じり、その先で、傾いた字が、また続く。傾いた方が、ミトが書いた分だ。まっすぐな方は、隣の村の連中が自分で書いた分だ。


板の裏に、丸が5つ刻(きざ)んであった。


「これは、何だ」


「何かあった日です。1つ目が、穴の縁が光った日で」


「5つ目は」


「昨日です。……風が、ずっと上に行ってました」



俺の足元で、黒いやつが動いた。


ミトが、それを見て、屈んで、いきなり手を出した。子供は、そういうことをする。黒いやつが逃げなかったので、俺も止めなかった。


「ゼノさん。これ、なんですか」


「俺のだ」


「ゼノさんの、なに?」


「……21年、下にいた分だ」



ミトは、しばらく、それを見てから、板を地面に置いて、両手を、黒いやつの前に開いた。


掌に、黒いやつが乗った。その瞬間に、ミトの肩が、1度だけ跳ねた。


「軽いです」


「軽えな」


「名前、あるんですか」


「1文字だけある」


ミトの親指が、黒いやつの縁を、そっと撫でた。



「なんて言うんですか」


「ゼ、だ」


ミトが、眉を寄せて、俺の顔を見上げた。


12のやつが、何か納得していない顔のまま、こう言った。


「短いです」


「短えな」


「足りないと思います」


「足りねえ」



ミトは、そこで、地面の板を拾って、裏を見た。丸が5つ刻んである面だ。その空いているところに、爪で、字を1つ引っかいた。爪では深く彫れず、字は、うっすらとしか残らなかった。


「ゼン、にします」


「なんでだ」


「ゼだと、呼んだとき、ゼノさんが返事しちゃうからです」



俺は何も返せなかった。こいつは1年48日、俺の名前を呼び続けた側だ。


「ゼン」


ミトがそう言うと、黒いやつが、掌の上で震えた。


俺の方は、何も来なかった。


そこで、後ろから、鍋(なべ)の音がした。


音の方を向くと、女が1人、両手で鍋を抱えて、井戸の方へ走ってきていた。走り方が、去年より重い。腕に、1年分の力がついている。1年、この村で、いちばん鍋を持ったやつだ。


「ゼノさん!」


ポーラだった。



こいつは、走ってきて、3歩手前で止まった。


鍋を、井戸の縁に置いて、両手を、前掛けで拭いてから、俺の顔を、正面から見た。


「わたし、言いたいことが、たくさんあります」


「ポーラ——」


こいつは、もう喋り始めていた。塩の話から始まり、竜の話になり、途中でハルの背が伸びた話になった。1年48日ぶんが、順番を無視して溢れてくる。


俺は、鍋の蓋(ふた)を開けた。


麦のスープが、半分残っていた。この村では、待っている相手がいるとき、半分残す。


「冷めてるぞ」


「温めます。……また、いなくなりますか」


「行く」


ポーラの手が止まった。


「けど、帰ってくる」


「ここへ?」


「お前がいるところへだ」


ポーラは泣きそうな顔で笑い、鍋を抱え直した。


「では、次は全部残しておきます」


「食え。腐るだろうが」

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