第294話 足りねえまま生きる
名前を呼ばれて、半分しか入らない。
上がった日から、ずっとそうだ。誰かが「ゼノ」と言う。その3文字のうち、頭の1文字が、俺の足元にいる黒いやつの方へ行く。残った2文字が、俺に入る。2文字では、少し足りない。
足りないと、返事が遅れる。
「ゼノ様」
「……おう」
「いま、1つ遅れました」
「遅れるのか?」
「はい。……1年、返事が無い方でしたので、わたしは待つのに慣れています」
リィナは、そう言って、俺の後ろについて歩いた。
歩き方が、変わっていた。4年前は、半歩後ろだった。いまは、1歩半後ろだ。遠慮で離れたんじゃない。まだ握れない掌を、こいつは背中に隠して歩く。
それでも、皮の匂いがする。
回廊の突き当たりに、翼が1枚の男が立っていた。
立ち方が、傾いている。翼は、身体の釣り合いに使うものらしい。5枚落とすと、天使は真っ直ぐ立てなくなる。ザリエルは、壁に手をついて、それを直していた。
「ゼノ」
俺は、返事の代わりに、そいつの頬を殴った。
翼が1枚しかない身体は、受け身も取れずに床へ倒れた。ザリエルは何も言わず、壁をつかんで立ち上がった。俺は、それを待った。
「いまのは、俺が腹を立ててた分だ。これで済んだと思うなよ」
「思っていない」
「残りは、生きて返せ。勝手に死ぬな。もう誰にも命じるな。決める側から降りろ」
「……分かった」
「なら、忘れるな」
怒鳴る言葉なら、いくらでもあった。だが、翼の折れたこいつにできた借りを、どう返せばいいのかは分からなかった。借りは、返すものだ。7000年、俺はそれで物を考えてきた。それが、いま、役に立たない。翼5枚は、金でも領地でも返せない。
「あんた、飛べるのか」
「飛べない」
「不便だな」
「不便だ。……床を、押して歩いている」
「セイルと同じだな」
俺がそう言うと、ザリエルは、少し黙ってから、壁から手を離した。その拍子に、身体が1度傾いで、それを自分で直した。直し方が、下手だ。
「ゼノ。……去年、詫びたいことが、もう1つあると言った」
「聞いた」
「いま、言ってもいいか?」
「刺し終わったからな」
男は、俺を見ずに言った。
「22年前、あなたを選んだのは、危険だったからではない」
「じゃあ、何だ」
「誰も、あなたを呼ばなかったからだ」
俺は、少し笑った。7000年、俺には呼ぶ者がいなかったから、消えても誰も数え直さない。名簿を38冊読んだ男は、そこを見る。
「調べたのか?」
「調べた。……200年分、遡った」
「暇だな」
「暇ではなかった」
そこへ、アステリアが来た。
父親の横に立ち、片方の翼を、傾いている側へ当てる。
支えられた男は、礼も拒絶も口にしなかった。そのまま、娘の翼に身体を預けた。
「アステリア」
「はい」
「そいつ、重えだろ」
「重いです。……23年支えた方より、重いです」
「そうか」
「あなた。母は、軽かったです。磨り減っていたからです」
何も返せず、床を見た。床には、影が落ちない。昨日まで、そうだった。いまは、俺の足元に、小さい影が1つある。俺のじゃない。黒いやつのだ。
天界の床に影ができたのは、22年ぶりだったらしい。セイルが、そう言っていた。
ザリエルが、壁に手を置いたまま俺を呼んだ。
「ゼノ。1つ、頼みがある。38本の柱を下ろしたい。私は命じず、三界に諮る」
「下ろすのか?」
「数える柱を、無くす。……代わりに、名簿を、3つの界で共有する」
「手間だな」
口にしてから、違うと思った。去年、下の連中は1年かけて34人の当番を回した。手間だ。その手間を、誰も厄介とは言わなかった。それで、38本が揃った。
「……いや。やれ。あんたが最初の帳面を書け」
「私が?」
「上から数えるためじゃねえ。落とした名を、下から拾うためだ。書き終わるまで、あんたは境界の番をしろ」
「手伝ってもらえるか」
「断る。俺は、下に帰る」
ザリエルは、そこで、初めて、俺の顔を正面から見た。
頷いてから、壁に手をつき直した。その手の上に、アステリアの翼が乗ったままだった。娘の方は、離さなかった。
「ゼノ。……いつ、下りる」
「明日だ」
「早いな」
「1年と48日、待たせてる」
回廊を戻るとき、セイルが机の前に立っていた。
18枚目の紙を、また写している。1年で24枚目まで行ったはずなのに、また18枚目に戻っている。俺が通ると、この男は、顔を上げずにこう言った。
「ゼノ。名前は、戻るのか」
「戻らねえ」
「1文字、足りないままか」
「足りねえまま生きる」
「……そうか。私も、指が震えたままだ」




