第293話 おかえりなさいませ
縄が、初めて重くなりました。
1年と48日、この縄は、軽いままでした。下には、返事しか掛かっておりませんでした。返事は、重さになりません。
その晩、掌に、重さが来ました。
わたしは、引きました。
わたし1人ではありません。上に3人、押さえ手がおります。アステリア様が右、ヴェルナ様が左、セレスティア様が、椅子に座ったまま、わたしの手首に掌を添えておられました。
4人で、1本を引きました。
上がってまいりましたのは、ゼノ様ではありませんでした。
黒い、小さいものでした。形がありません。縄の先に巻きついて、縁の口から出てまいりますと、天界の床の上で、震えました。
寒いからではありません。明るいからです。天界の床には、影が落ちません。
ヴェルナ様が、それを見て、立ち上がられました。
「……我が君の、闇でございます」
「ゼノ様のですか?」
「はい。……7000年、横で見てまいりました。間違えません」
「では、ゼノ様は」
「まだ、下でございます」
黒いものが、床の上を動いて、わたしの足元まで来て、止まりました。
わたしの靴の爪先に、少しだけ触れて、すぐ離れました。
4年前、納屋の子供がそうしました。
知らない大人に近づいて、触って、離れて、それからもう一度触る子です。
わたしは、膝をつきました。
膝をつけば、縄が緩みます。1年、立ったまま引いて、一度も緩めませんでした。それを、その晩、破って、掌を床に置きました。
黒いものが、その掌に乗りました。
軽かったのです。
それでいて、輪郭が、はっきりしております。1年前まで、この方の闇は、掴むと崩れるものでした。崩れないということは、中に何か入ったということです。
「……あなた、名前は」
黒いものが、震えて、わたしの掌の上で、音を1つ出しました。言葉にはなりませんでしたが、頭の音だけ、はっきり聞こえました。
「ゼ」
わたしは、分かってしまいました。
あの方は、自分の名前を割ったのです。3文字のうち、最初の1文字を、このものにお分けになったのです。あの方に残るのは、2文字です。
2文字では、たぶん、足りません。
「ゼ」
「はい」
「……下に、行けますか」
黒いものは、答えずに、わたしの掌から下りて、縄の先に、もう一度巻きついて、縁の口の方を向きました。待っている形でした。
わたしは、縄を、下ろしました。
下ろすのは、初めてです。
1年、わたしはこの縄を、引くことしか致しませんでした。下ろすと、たるみます。たるんだ縄は、握りが利きません。それを、わたしは、3人に押さえていただいたまま、10尺下ろしました。
その先で、縄が、止まりました。10尺は、縫い目の長さと同じです。
それから、1度だけ、強く引かれました。
引き方を、わたしは知っております。4年前、井戸の底で、ゼノ様がわたしの縄を引かれたときと、同じ引き方です。あのとき、わたしは、引かれた分だけ腰を落としました。
その晩も、同じようにいたしました。
「アステリア様」
「はい」
「離します」
「……離す?」
「一度、離します。離さないと、上がりません」
アステリア様の手が、わたしの上で固くなりました。
当たり前です。1年、この方は、わたしの手が痙攣したときだけ押さえてこられました。押さえる係の方に、離せと申し上げたのです。
「リィナさん。落ちます」
「落ちません」
「なぜ、そう言えるのですか」
「……離す巻き方を、昨日、覚えましたので」
わたしは、逆に巻いた分を、解きました。
その瞬間に、縄が、手の中を走って、掌の皮が、もう一度剥けました。それでも、指は開いたままにしておきました。
縄が、全部出ていって、縁の口の下で、止まりました。
それから、こちらへ返ってまいりました。速いのです。1年、こんなに速く返ったことはありません。下から誰かが、自分で登ってきております。
わたしは、開いた掌を、もう一度閉じました。その中に、縄の熱が残っておりました。
縁の口から、手が1本、出てまいりました。
大きい手です。指の付け根に、胼胝がありません。7000年、剣を持たずに生きた手です。その手が、床の縁を掴んで、体重を掛けました。
わたしは、その手首を、両手で掴みました。
「ゼノ様」
「——おう」
「おかえりなさいませ」
「……ただいま、だな」




