第292話 俺のを、半分やる
その晩、下から呼ばれた。
1年と48日、俺は上から呼ばれてきた。上には、縄を握った女がいる。下には、届かなかった声が何万といる。その下の連中が、この晩、一斉に黙った。
それから、1つだけ、上へ向かって声を出した。何万が黙るのを、俺は縁に来てから一度も見たことがない。
声は、3文字だった。
俺の名だ。何万が同じ3文字を言うと、言葉に聞こえない。地面が鳴るのに近い。その間、俺は、自分の輪郭がどこにあるか、数えずに分かった。
1年ぶりだった。
上からも、来た。
上のは、揃っていない。麦の村は早い。聖国は遅い。魔界のは、間に何か長いものが挟まっている。ヴェルナだ。あの女は、名前の前に必ず何か1つ余計に付ける。7000年、そうだった。
揃っていないのに、重なって、縫い目が緩んだ。
10尺の、上から3尺目だ。1年前、俺が自分の闇で綴じた場所だ。糸は、俺のものだから、俺の名で緩む。隙間から、上の光が、1筋だけ入ってきた。
その光を、横のものが見た。
名無しだ。俺がそう呼んでいるだけで、こいつは自分を何とも呼んでいない。
21年、底にいた。去年から、俺の手首に巻きついている。光が入った瞬間に、巻きついた力が強くなった。怖がっている。21年、こいつは光を見ていない。
「おい」
返事は、無い。
「上、行くぞ」
巻きついた力が、そこで、逆になった。
引かれた。下へだ。こいつは、俺を下へ引いた。21年、1人でいたものが、初めて連れがいて、その連れが上へ行こうとしている。引くに決まっている。
俺は、引かれるままにした。
3尺、下がった。下がるのは、上がるより楽だ。
その先は、暗い。上の光が、もう見えない。ここが、22年前にこいつが落ちた場所だ。俺は、そこで、初めて、自分の手を下へ伸ばして、こいつの、巻きついていない方に触った。
冷たい。
「お前、名前が要るな」
返事は、無い。
「俺のを、半分やる」
俺は、名前を半分に割った。
割り方を、俺は知らない。3文字のうち、最初の1文字を、こいつの方へ押し込んだ。こいつが、初めて音を出した。
音は、唸りじゃなかった。
呼ばれた者が、返事をするときの音だった。
そのとき、上で、38本が揃った。
その音が、縁の内側まで届いた瞬間に、俺は、自分が「ある」ことになったのが分かった。分かり方が、雑だった。ずっと薄くなり続けていたものが、一度に元の濃さに戻って、痛い。
痛いのは、久しぶりだった。1年、俺はどこも痛くない場所にいた。
左肩が、戻ってきた。
1年前、縁に喰われた方だ。その輪郭が、縁の側から剥がれて、俺の側に戻った。肩が、重い。そこに、身体がある。
俺は、その肩で、一度、息をした。
縄が、上から垂れてきた。
3本まとめて、1本に結び足されたやつだ。先の方が、麦の村の井戸の縄と同じ縒りだった。その先を、俺は掴まなかった。掴む前に、やることがある。
俺は、名無しを、先に掴ませた。
「先に上がれ」
こいつは、縄を掴んだ。
掴み方が、下手だった。21年、何も掴まずにいたものの掴み方だ。学院の修練場で、リィナに初めて木剣を持たされた学生も、親指を内側に入れていた。あれと同じだ。
俺は、後ろから、親指だけ外へ出してやった。
縄が、上へ動いた。
上で誰かが引いている。引き方が、強い。1年、この引きは弱くなり続けていた。今日だけ、強い。理由を、俺は知っている。上には、いま、押さえ手が3人いる。
名無しが、上がっていった。
俺は、縁に残った。
綴じが、まだ解けていない。10尺の縫い目のうち、緩んだのは3尺目の1本だけだ。俺が上がるには、外側から刺した最後の1針を、内側から抜く者が要る。
抜ける者は、この1年で1人だけ増えた。
上がっていったやつだ。
俺は、上を見た。
縁の口の向こうで、縄がもう一度、下りてきた。その先に、小さいものが巻きついている。21年、底にいたものが、いま、上から俺を釣りに来ている。
「——遅えよ」
言った声が、出た。縁の口の外まで、自分の声が届いた。




