第290話 離す巻き方
前の晩に、ヴェルナ様が上がってこられました。
1年と、47日ぶりです。縁の口までの回廊を、この方は、走らずに歩いてこられましたのに、裾が捲れておりました。それを、直さずにいらっしゃいました。
「リィナ」
「ヴェルナ様」
「明日でございますね」
「明日です」
この方は、わたしの横に膝をついて、わたしの掌を、自分の両手で下から支えられました。その手が、冷たかったのです。魔界の地下の泉は、1年、冷たいままだそうです。
「……ひどい手でございます」
「はい」
「見せなさい」
「見せております」
この方は、わたしの指を、ご自分の方へ向け直されました。
ヴェルナ様は、そこで、わたしの、縄を握っている方の手の指を、1本ずつ数えられました。
4本目で止まられました。その指は、伸びたままです。半年前から、曲がらないまま、縄に掛かっております。掛かっていれば、用は足ります。
「リィナ。あなた、明日、この手を離せますか」
「離します」
「離せるか、と伺いました」
「……離します」
わたしは、声が固くなりました。
この方が、わたしの答えを2度訊きました。2度訊かれるのは、信じられていないということです。4年、わたしはこの方に、一度も信じられたことがありません。
「ヴェルナ様。あなた様は、わたしを信用しておられません」
「しております」
「では、なぜ2度お訊きになるのですか?」
「……7000年、わたしは、離せなかったからでございます」
この方の手が、わたしの掌から離れました。
その手が、ご自分の膝の上に置かれて、指が、1本ずつ、袖の内側へ入っていきました。隠されたのです。この方が、わたしの前で何かを隠すのは、初めてでした。
「我が君が、人間界へ落とされたとき、わたしは追いませんでした」
「存じております」
「追えたのです。魔級の魔法が、使えましたので」
「……そう伺いました」
「追わずに、玉座を守りました。それが7000年の係でございますから」
わたしは、言ってしまいました。
「わたしなら、追いました」
言ってから、しまったと思いましたが、取り消しませんでした。それでは、嘘になります。わたしは、4年前、ゼノ様が北へ行かれたとき、剣を持って走りました。走って、追いつきませんでした。
ヴェルナ様は、しばらく、何も仰いませんでした。
「……そうでしょうね。あなたは、追うでしょう」
「すみません」
「謝らないでくださいまし」
「分かりました」
「わたしは、いま、あなたを羨んでおります。7000年、誰にも思わなかったことでございます」
わたしは、縄を1度、引きました。
話を、終わらせたかったのです。引くと、下から返ってまいります。この1年、返ってこなかった日はありません。返り方が、日によって違います。強い日と、弱い日があります。
その日は、弱い日でした。
「……ヴェルナ様。明日、下からの返りが無かったら、どうすればよろしいでしょう」
「無くても、呼びなさい」
「呼びます」
「わたしも、下で呼びます。……7000年で、初めて、留守番をいたしません」
その晩、わたしは、眠りませんでした。
掌が痙攣したのです。1年で、4度目です。痙攣したときは、アステリア様が上から押さえてくださいます。その晩は、押さえ手が3人おりました。
アステリア様と、セレスティア様と、ヴェルナ様です。
セレスティア様は、まだ、ご自分では歩けません。
椅子ごと運ばれてこられて、わたしの手の上に、掌を1つ載せられました。23年、狭間を支えた方の掌です。皮が、わたしのより厚かったのです。
「……あなた、名前は」
「リィナと申します」
「リィナ。手が、わたしの若い頃に似ています」
「そうでしょうか?」
「似ています。……23年後、もっと似ます」
わたしは、それを聞いて、笑ってしまいました。
23年という数が、この方の口から出ました。
「セレスティア様」
「なに」
「23年、呼びません」
「そう」
「明日、帰っていただきます」
朝が来る前に、縁の口の下から、風が上がってまいりました。
1年で、3度目です。その風が、わたしの前髪を持ち上げて、すぐに止みました。
わたしは、縄を、掌に巻き直しました。
明日、離すためです。1年、わたしは離さない巻き方をしてまいりました。離す巻き方を、わたしは知りません。教わっておりません。
だから、自分で、逆に巻きました。




