第287話 421日目の朝
ここには、夜が無い。
昼も無い。あるのは、縫い目の10尺と、その下の暗さだけだ。時間の計り方は、1つしかない。上から声が降りてくる。朝と晩の2回だ。2回で1日と、俺は決めている。
今日で、406日になる。
声は、名前を言う。
俺の名前だ。言うのは、日によって違う。子供の声が多い。子供は、名前のあとに余計なことを言う。今日は雨だとか、麦が2寸伸びたとか、隣の村の男が板に字を書いたとか。
余計なことの方が、長く残る。
名前だけの日もある。
女の声だ。3年、井戸の縄を引いた女の声を、俺は聞き分けられる。この女は、呼んでから、必ず一度、息を止める。返事を待つ間だ。返事が無いと、もう一度呼ぶ。
2度目の方が、少し小さい。
諦めたせいではなかった。1度目で、喉を使いすぎる。3年、この女は、力の配り方が下手だった。
俺の横に、名無しがいる。
22年前、俺から先に剥がれて、先に底まで行った分だ。去年、14回目の針と一緒に巻き込んだ。それから、こいつは、俺の横から離れないが、何もしない。
形も無い。声も無い。ただ、俺が上を見ると、一緒に上を見る。
「お前、名前があったか」
返事は、無い。
「無えな。……俺も、無えらしい」
それが分かったのは、300日目くらいだ。
分かり方が、変だった。上から声が降りてきて、俺の名前を言う。その名前が、その日、俺の中で形にならなかった。音は聞こえているのに、それが自分のことだと、一度で繋がらなかった。
繋がるまでに、6つ数えた。
次の日は、4つだった。その次は、9つだった。日によって違うのが、いちばん質が悪い。
俺は、そこから、自分で数え始めた。
数えるのは、名前を持っている者だ。上で縄を握っている女。玉座を空けている女。1096行目の女。棚から出た娘。翼が5枚になった男。21年、同じ場所を彫った男。両手に2種類の胼胝がある少年。12になった子供。
数えている間は、俺の輪郭が残る。数えるのをやめると、縁の方に寄る。
縁に寄るのは、楽だ。
痛みが無い。去年まで、俺は人間の身体で、ずっとどこかが痛かった。腹が減った。脇腹が引いた。指が凍えた。あれが全部無くなると、身体を持っていた理由も一緒に無くなる。
だから、俺は、わざと縫い目に手を当てる。
綴じた糸は、俺の闇だ。触ると、少しだけ熱い。
405日目に、糸が1本、緩んだ。
10尺の、上から3尺目のところだ。下から押されたからではない。上から引かれたからだ。縄を握っている女が、この日、いつもより強く引いた。
なぜ強く引いたのかは、下からは分からない。
俺は、緩んだ1本を、指で押さえて、下を見た。何万の届かなかった声が、まだ上へ来ようとしている。1年で、数は減っていない。減らないものを相手にするのは、慣れている。7000年、俺がやってきたのは、そういうことだ。
「おい」
名無しが、横で上を見た。俺が呼んだからではない。呼ばれる刻限が近いからだ。
「お前、ここに何年いた」
返事は、無い。
「21年だな。……1人でか」
そのとき、初めて、横のものが動いた。
俺の手首に、巻きついた。その形が、糸に似ていた。21年、底にいたものが、俺の手首を、外側から締めた。強くはない。力が足りないせいではなかった。
離さない形だ。
406日目の朝、声が降りてきた。
子供の声だ。いつもの通り、名前を言った。それが、その日は、1つ数えるより早く繋がった。手首が、締まっていた。
俺は、試しに、自分で言ってみた。
声が、出なかった。喉の形を作ってから、そこに何も無いことに気づいた。
ここに、身体は無い。呼ばれた名前を受け取ることはできる。自分から名乗ることは、できない。名乗れない者は、どの界の名簿にも載らず、上から数えられない。
俺は、手首に巻きついたものを、指で1度だけ叩いた。
「……あと、何回呼ばれりゃいいんだろうな」




