↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
286/300

第286話 201行目だけ

1096行目は、1年経っても、白いままでございます。


わたくしは、その頁を、宰相府の机の上に広げたまま、朝から動かしておりません。その日の午後に、天界から人が参るという知らせが入っておりました。


参られたのは、アステリア様でした。


翼を、畳んでおいででした。畳み方が、去年より雑になっておりました。


そのまま、わたくしの部屋の入口で立ち止まられました。床の敷物に、泥がついておりました。この方は、汚れた場所を跨ぐのに、一度考えます。


「エリシア様」


「アステリア様。……お久しゅうございます」


「1年と、41日です」


「数えておいでですか?」


「数えています。……あの方が、そうしろと言ったわけではありません」



わたくしは、椅子を1つ、机の横に置いて、1096行目を、そのままお見せいたしました。去年、あの方がわたくしの名を数から外してくださった行です。この行は、上から数えられず、柱も読み上げません。


「アステリア様。これと、同じことが起きております」


「……ゼノに、ですか」


「はい。縁に残られた方は、どの界の名簿にも、載っておりません」



アステリア様の指が、白い行の上で止まって、頁に触れませんでした。21年、棚の中で何にも触らずにいた指です。そのまま、この方は、こう仰(おっしゃ)いました。


「載せれば、戻せますか」


「分かりません」


「分からないのに、1年、書いておられたのですか?」


「書いておりました。……200行、埋めました」



そこで、この方の声が、初めて高くなりました。


「なぜ、わたしに言わなかったのですか」


「申し上げる筋のことではございません」


「筋の話をしているのではありません」


「では、何のお話でしょう」


「……わたしは、上で縄を握っていました。エリシア様は、下で名前を書いていました。どちらも、あの方には届いていません」



わたくしは、羽根ペンを置きました。


その音が、思ったより大きく鳴りました。鳴らしたのは、わたくしです。この方の前で、わたくしが物を鳴らしたのは、初めてでございました。


「アステリア様。届いていないのは、わたくしの方でございます」


「そんなことは」


「あなた様は、下へ降(お)りて、あの方の顔を見ておいででしょう。わたくしは、1年、顔を見ておりません」


「……見ました」


「何度でしょう?」


「……3度です」



わたくしは、それを聞いて、息を1つ吐いて、自分の声が震(ふる)えているのに気づきました。羨ましいのでございます。羨ましいと思うのは、政治の言葉になりません。ですから、わたくしは、いつもの言い方に戻そうといたしました。


戻りませんでした。


「……3度も、ですか」



アステリア様は、そこで、椅子に座って、両手を膝の上で重ねられました。その手の甲に、縄の痕(あと)がついております。1年、リィナの手を押さえてこられた手でございます。


「エリシア様。3度とも、あの方は、上を見ていません」


「では、どこを?」


「縫い目を見ています。……ほどけていないか、確かめているのです」



わたくしは、机の引き出しから、束を1つ出しました。


聖国から届いた写しでございます。ジークハルト様の38冊のうち、落ちた者の名だけを抜いた分でございます。その中に、22年前の項がございます。項の見出しに、こう書いてございました。


——名を持たぬ大悪魔、1。


「アステリア様。あの方は、22年前から、1と数えられております」


「名前が、書いてありません」


「はい。……ザリエル様が、そう数えさせたのです。聖国の教会は、そのまま書き写しました」



アステリア様が、立ち上がられました。


その拍子に、畳んでいた翼が、片方だけ開きました。21年、感情で翼を動かすことを禁じられていた方が、いま、わたくしの部屋で、片翼を開いておられます。


「……父に、書き直させます」


「書き直しは、利きません」


「なぜですか」


「一度数えた者なら、上から消すのは、できます。消した者を、上へ——いえ、戻した例は、どの界にもございません」



「では、下から入れます」


そう仰ったのは、アステリア様です。


「上から数えられないのなら、下から数えます。……麦の村が、1年、名前を呼んでいます」


それから、1096行目を見ました。白い行です。去年、あの方は、わたくしをここから外しました。その理由を、あの方は一度も説明なさいませんでした。


「アステリア様。……この行に、あの方のお名前を書いてもよろしいでしょうか」


「わたしに訊かないでください」


この方は、そう仰ってから、窓の方を向かれました。その先に、井戸はございません。



わたくしは、羽根ペンを取って、1096行目に、3文字だけ書きました。字が、滲(にじ)みました。手が震えていたからではございません。インクの量を間違えたからでございます。1年、わたくしは同じ量で200行書いてまいりました。


201行目だけ、量を間違えました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。