第286話 201行目だけ
1096行目は、1年経っても、白いままでございます。
わたくしは、その頁を、宰相府の机の上に広げたまま、朝から動かしておりません。その日の午後に、天界から人が参るという知らせが入っておりました。
参られたのは、アステリア様でした。
翼を、畳んでおいででした。畳み方が、去年より雑になっておりました。
そのまま、わたくしの部屋の入口で立ち止まられました。床の敷物に、泥がついておりました。この方は、汚れた場所を跨ぐのに、一度考えます。
「エリシア様」
「アステリア様。……お久しゅうございます」
「1年と、41日です」
「数えておいでですか?」
「数えています。……あの方が、そうしろと言ったわけではありません」
わたくしは、椅子を1つ、机の横に置いて、1096行目を、そのままお見せいたしました。去年、あの方がわたくしの名を数から外してくださった行です。この行は、上から数えられず、柱も読み上げません。
「アステリア様。これと、同じことが起きております」
「……ゼノに、ですか」
「はい。縁に残られた方は、どの界の名簿にも、載っておりません」
アステリア様の指が、白い行の上で止まって、頁に触れませんでした。21年、棚の中で何にも触らずにいた指です。そのまま、この方は、こう仰いました。
「載せれば、戻せますか」
「分かりません」
「分からないのに、1年、書いておられたのですか?」
「書いておりました。……200行、埋めました」
そこで、この方の声が、初めて高くなりました。
「なぜ、わたしに言わなかったのですか」
「申し上げる筋のことではございません」
「筋の話をしているのではありません」
「では、何のお話でしょう」
「……わたしは、上で縄を握っていました。エリシア様は、下で名前を書いていました。どちらも、あの方には届いていません」
わたくしは、羽根ペンを置きました。
その音が、思ったより大きく鳴りました。鳴らしたのは、わたくしです。この方の前で、わたくしが物を鳴らしたのは、初めてでございました。
「アステリア様。届いていないのは、わたくしの方でございます」
「そんなことは」
「あなた様は、下へ降りて、あの方の顔を見ておいででしょう。わたくしは、1年、顔を見ておりません」
「……見ました」
「何度でしょう?」
「……3度です」
わたくしは、それを聞いて、息を1つ吐いて、自分の声が震えているのに気づきました。羨ましいのでございます。羨ましいと思うのは、政治の言葉になりません。ですから、わたくしは、いつもの言い方に戻そうといたしました。
戻りませんでした。
「……3度も、ですか」
アステリア様は、そこで、椅子に座って、両手を膝の上で重ねられました。その手の甲に、縄の痕がついております。1年、リィナの手を押さえてこられた手でございます。
「エリシア様。3度とも、あの方は、上を見ていません」
「では、どこを?」
「縫い目を見ています。……ほどけていないか、確かめているのです」
わたくしは、机の引き出しから、束を1つ出しました。
聖国から届いた写しでございます。ジークハルト様の38冊のうち、落ちた者の名だけを抜いた分でございます。その中に、22年前の項がございます。項の見出しに、こう書いてございました。
——名を持たぬ大悪魔、1。
「アステリア様。あの方は、22年前から、1と数えられております」
「名前が、書いてありません」
「はい。……ザリエル様が、そう数えさせたのです。聖国の教会は、そのまま書き写しました」
アステリア様が、立ち上がられました。
その拍子に、畳んでいた翼が、片方だけ開きました。21年、感情で翼を動かすことを禁じられていた方が、いま、わたくしの部屋で、片翼を開いておられます。
「……父に、書き直させます」
「書き直しは、利きません」
「なぜですか」
「一度数えた者なら、上から消すのは、できます。消した者を、上へ——いえ、戻した例は、どの界にもございません」
「では、下から入れます」
そう仰ったのは、アステリア様です。
「上から数えられないのなら、下から数えます。……麦の村が、1年、名前を呼んでいます」
それから、1096行目を見ました。白い行です。去年、あの方は、わたくしをここから外しました。その理由を、あの方は一度も説明なさいませんでした。
「アステリア様。……この行に、あの方のお名前を書いてもよろしいでしょうか」
「わたしに訊かないでください」
この方は、そう仰ってから、窓の方を向かれました。その先に、井戸はございません。
わたくしは、羽根ペンを取って、1096行目に、3文字だけ書きました。字が、滲みました。手が震えていたからではございません。インクの量を間違えたからでございます。1年、わたくしは同じ量で200行書いてまいりました。
201行目だけ、量を間違えました。




