第285話 空いてる気が、しねえんだ
玉座を、わたしは1年、空けたままにしております。
空けておりますと、座りたがる者が出ますので、月に一度、広間を開けて、座りたい者に座らせております。みな、3つ数えないうちに立ちます。理由は、誰も申しません。
わたしには分かります。わたしも、一度だけ座ってみたことがございます。
あの椅子は、背もたれが冷たいのです。
我が君は、あそこに深く座られたことがございません。いつも、浅く腰を掛けて、片方の肘だけを置いておられました。1年経って、その形の窪みだけが、座面に残っております。
窪みの形に、誰も入りません。
ドレクが、312人の名簿を持ってまいりました。
去年、北の峠で貸した者たちです。その見返りに、あの男は「数えてくれ」と申しました。
「ヴェルナ様。298人です」
「14人、減りましたか」
「減っておりません。14人は、上に行ったままです」
「……上に?」
わたしは、名簿を自分で開きました。
14人に、印がついております。印の横に、ドレクの字で、行き先が書いてございました。「縁の口」と、14回、同じ字が並んでおります。
「ドレク。あなた、命じましたか」
「命じておりません」
「では、なぜ」
「……上で、縄を握っている娘の、交代です」
わたしは、名簿を閉じました。
そうしませんと、声が出そうでございました。4年前、この界の者は、人間界の娘のために指1本動かしませんでした。その者たちが、いま、順番を作って上へ行っております。
「1人、何日でしょう」
「7日です。7日で、掌が保ちません」
「……7日」
「あの娘は、1年です」
その晩、わたしは、地下の泉へ降りました。
我が君が、4年前に棲んでおられた場所でございます。水が、いまも湧いております。その上に、1尺の穴が開いております。テオという少年が開けたものです。
穴の下に、椅子を1つ置いてございます。1年前、わたしがここへ運ばせたものでございます。
背もたれの無い、低い椅子です。わたしは、そこに浅く腰を掛けて、片方の肘だけを、膝に置きました。
「我が君」
返事は、ございません。
「298人、無事でございます。14人は、上におります」
返事は、ございません。
「玉座は、空けてございます。……座りたがる者が、月に3人ほど参ります」
そこまで申して、わたしは、口を噤みました。
次に申し上げようとしたことは、報告ではございませんでした。この1年、わたしは、報告だけを申し上げてまいりました。報告なら、返事が無くても形になります。
形にならないものを、わたしは、1年溜めておりました。
「……我が君。わたしは、腹が立っております」
穴の縁の光が、少し揺れました。
「あなた様は、わたしに何も仰らずに、上へ行かれました。4年前も、そうでございました。人間界へ落ちられたときも、わたしは後から聞きました」
揺れた光が、元に戻りました。そのあとの方が、少しだけ明るうございました。
「わたしは、7000年、あなた様の留守を守る係でございます。係を、わたしが選んだのではありません。あなた様が、一度もお選びにならなかったから、そうなったのです」
言ってしまってから、わたしは、膝に置いた肘を下ろして、その手で、椅子の座面を撫でました。背もたれの無い椅子です。窪みは、ございません。窪みを作るには、7000年掛かります。
「……申し訳ございません。いまのは、報告ではございません」
穴から、糸くずが1本、落ちてまいりました。
黒い糸です。この界のものではございません。人間界の麻でも、天界の織りでもございません。指で摘まみますと、闇の匂いがいたしました。7000年、わたしが横で嗅いでまいりました匂いでございます。
わたしは、それを、掌に載せたまま、長く動けませんでした。
翌朝、わたしは、広間を開けて、座りたい者に座らせました。
その日は、5人参りました。5人とも、3つ数えないうちに立ちました。その5人に、わたしは初めて、理由を尋ねました。
いちばん年若い者が、俯いたまま、こう申しました。
「……空いてる気が、しねえんだ」
わたしは、その日から、月に一度を、10日に一度にいたしました。
座らせるためではございません。広間の埃を、その度に払うためでございます。
黒い糸は、玉座の背もたれに、結んでございます。




