第284話 当番の板
当番の板を作ったのは、わたしです。
麦の村の井戸の横に、木の板を1枚立てました。板に、名前を書きます。名前のある人が、その日、呼ぶ番です。朝と晩の2回、呼びます。ポーラさんが決めました。
わたしは、書く係です。
字は、8つのときに覚えました。
いまは、グランさんに教えています。グランさんの字は、傾いています。教えているうちに、わたしの字も傾いてきました。それでも読めますから、当番は回ります。
板には、いま、33人の名前があります。村の人が28人と、隣の村の人が5人です。
「ミト。今日は、誰の番だい」
「ドランさんの下の子の、ハルさんです」
グランさんは、板の字を下から覗きました。
「あいつ、声が小せえぞ」
「知ってます。だから、今日は2人にしました」
「もう1人は?」
「わたしです」
グランさんは、それを聞いて、鍬を置いて、わたしの頭に手を乗せました。この人の手は、大きくて、少し臭いです。畑の土の匂いです。去年まで、この人は魔界で戦鎚を振っていたそうです。その手で、いまは麦を作っています。
「おい。お前、いくつになった」
「12です」
「もう1年か」
「1年と、40日です」
穴は、井戸の上にあります。
1尺です。テオさんが、月に一度来て、開け直します。そうしないと、だんだん小さくなります。去年、小さくなった穴に、わたしは指を1本入れてみました。指が、冷たくなりました。上の空気は、冷たいです。
呼ぶときは、穴の下に立って、上を向いて、名前を言います。
「ゼノさん」
わたしが言うと、ハルさんが、そのあとに続けます。
「……ゼノさん」
「ハルさん。もっと、大きい声で」
「聞こえてるのかな?」
「聞こえてます」
ハルさんの声が、途中で裏返りました。
「なんで分かるんだよ」
「リィナさんが、上で縄を持ってるからです」
ハルさんは、そこで、黙りました。
リィナさんのことを思い出したのです。リィナさんは、1年に一度だけ、下へ降りてきて、井戸の水を飲んで、掌を見せてくれます。掌は、去年より、硬くなっていました。
「ミト。リィナさんの手、痛くないのかな」
「痛いと思います」
「じゃあ、なんで」
「痛いと思いますけど、訊いてません」
訊かないのは、わたしが決めたことです。
去年、一度だけ訊いたら、リィナさんは笑って、「平気です」と言いました。あの言い方は、わたしがお母さんに「お腹すいた?」と訊かれて、「すいてない」と言ったときの言い方と、同じでした。
だから、それからは、訊いていません。訊かれたくないことを訊くと、その人は、嘘を1つつきます。
かわりに、水を汲んで、先に置いておきます。
その日、板の名前が1つ増えました。
隣の村の人です。隣の村は、去年の秋まで、わたしたちと喧嘩をしていました。麦の取り分で、揉めていたのです。その相手が、井戸の横まで来て、板を見ました。
「これ、順番に呼んでんのか」
「はい」
「……何年やってんだ」
「1年と、40日です」
「あと何年だ?」
わたしは、それに、答えませんでした。
決めていないのです。
去年、リィナさんが上で、「何年ですか」と訊かれて、「決めません」と答えたそうです。それを、ポーラさんが下で聞いて、こちらでも同じにしようと言いました。決めると、その年が来たときに、終わりにしたくなるからです。
隣の村の人は、板の空いているところに、自分の名前を書きました。
字が、まっすぐでした。わたしの字より、ずっと読みやすい字でした。
晩の番のとき、風が下から吹きました。
いつもは、上から降りてきます。上の空気は冷たいので、降りてくるのです。その日は、逆でした。井戸の水の面が、少し揺れました。その水に、穴の光が映りました。
ハルさんが、わたしの袖を引きました。
「ミト。いま」
「はい」
「風、上に行ったよな?」
「行きました」
わたしは、その日の板に、印を1つ付けました。
印は、丸です。丸は、何かあった日に付けます。1年と40日で、丸は、これが3つ目です。1つ目は、去年の春に、穴の縁が光った日。2つ目は、夏に、上から糸くずが1本落ちてきた日。
3つ目が、風が上へ行った日です。
板を、わたしは、家に持って帰りません。
雨の日も、井戸の横に立てたままにしておきます。雨に濡れると、字が薄くなります。薄くなったら、書き直します。書き直すのが、わたしの仕事です。
夜、家の窓から、井戸の穴が見えます。
小さい光です。あの光の向こうに、わたしを一度だけ肩車した人がいます。あの人は、わたしの名前を、一度で覚えました。




