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第283話 3度目からは、名前だけ

2本目が緩んだのは、1本目より、ほんの少しあとでした。


1本目は、リディア様の縄です。糸が尽きた時点で、張りが抜けました。その縄を、わたしは掌から外して、膝の横へ置きました。まだ温かいのが分かりました。


2本目は、アステリア様の縄です。3本目が、ゼノ様です。



2本目が緩んだとき、わたしは、縁の口を覗きませんでした。


覗くと、手が動きます。3年、井戸の縄で覚えたことがあります。引いている間は、下を見ません。見た者は、必ず一度、握りを直して、その分だけ、縄は下がります。


だから、わたしは、上だけを見ておりました。


縁の口から、先にアステリア様が上がってこられました。


外套が、片側だけ濡れています。下の空気が、冷たいのです。肩が、右だけ落ちておりました。その肩に、23年分の腕が乗っていた跡がありました。


そのうしろから、白い髪の方が上がってこられました。


セレスティア様です。23年ぶりに縁から出た方は、ご自分では歩けず、アステリア様が、片腕で支えておられました。



「リィナさん」


「はい」


縄を握ったまま、わたしは、首だけを動かしました。


「ゼノ様が」


「存じております」


「まだ、下に」


「存じております」



わたしは、初めて声が大きくなりました。


「アステリア様。……なぜ、先にお上がりになったのですか?」


言ってから、しまったと思いましたが、口は止まりませんでした。3年、わたしはこの方に、一度も大きな声を出したことがありません。この方は、ゼノ様を人間界へ落とした側の娘です。落とした側に強く言うのを、わたしはずっと我慢しておりました。


「……わたし、母を連れて上がるように、言われました」


「どなたに」


「ゼノ様に」


「では、なぜ言われた通りになさったのですか」



アステリア様の手が、そこで、お母様の背から離れました。


その手が、震えておりました。この方の手が震えるのを、わたしは初めて見ました。21年、棚の中で動かずにいた方の手です。


「リィナさん。わたし、あの方に、下で言いました」


「何をですか」


「一緒に上がってくださいと」


「そうしたら」


「——上の娘が、縄を持ってる。離すと落ちる、と」



わたしは、掌を開きました。


3本のうち、2本が緩んでおります。残った1本が、まだ張ったまま、掌の皮の下へ食い込んでおりました。剥けた皮の下から、赤いものが出ております。3年で、こうなりました。


ゼノ様は、わたしに、離すなとは言いませんでした。


言わずに、わたしが離さないことを、計算に入れておられました。


「アステリア様」


「なんでしょう」


「わたし、腹が立っております」


「……そう見えます」


「あの方にです。あなた様にではありません」



わたしは、涙が出ました。


悔しかったのです。4年半、わたしはあの方の後ろを歩いてまいりました。歩いていれば、いつか隣になると思っておりました。いま、あの方はわたしの真下におられます。真下は、隣ではありません。


「リィナさん。……代わります」


「お断りします」


「わたしも、握れます」


「握れません。……この縄は、3年、わたしの手の形に縒(よ)れております」



アステリア様は、それでも、手を出されました。


細い指です。21年、棚の中で何も持たなかった指です。その指の腹に、いま、櫛(くし)の歯の痕が2本ついておりました。


わたしは、その手を取って、自分の縄の上に重ねました。その指が、最初、縄の縒(よ)りと逆の向きに乗っておりました。


「……握るのではなく、押さえてください」


「分かりました」


「わたしの手が、痙攣(けいれん)します。痙攣したときだけ、上から押さえてください」


「はい」



そこへ、セイルさんが、新しい縄を1本持ってこられました。


下の界のものです。麦の村の井戸と、同じ縒(よ)り方でした。その縄を、わたしの3本目に、結(むす)び足しました。縄が長くなった分だけ、あの方は、下で少し楽になります。


「セイルさん」


「何だ」


「これで、何年保ちますか?」


「……分からない」


「分からないのですね」


「21年、私は、分かることしか言わずに生きてきた」



わたしは、縄を持つ手を、少しだけ動かしました。


握りを直したのではありません。呼ぶためです。呼ぶときは、息を吸いますので、掌が一度、緩みます。それでも落ちない握り方を、わたしは3年かけて覚えました。


わたしは、縁の口へ、声を投げました。


「ゼノ様」


返事は、ありません。縁の口の内側で、縫い目が10尺、暗いまま並んでおります。


「今日から、毎日呼びます。返事がなくても、呼びます」



縄が、1寸、下へ引かれました。


下の方が、引いたのです。3年前の井戸の縄より、ずっと弱い力でした。それでも、引きました。


わたしは、もう一度呼びました。


3度目からは、名前だけにいたしました。

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