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第282話 拾いに行かなかった分

最後の1針は、思っていたより、浅かった。


裂け目の端は、布じゃない。布なら、抜いた穴が残る。ここは、抜いた先から閉じようとする。その力の方が強くて、針を浅く入れても、閉じる力が糸を締めた。深く入れる必要が無かった。


深さより、時間だ。刺してから抜くまでに、下がどれだけ寄ってくるかで決まる。



1尺を、16回に分けた。


1回が、指1本の幅ほどだ。1回ごとに、下から手が伸びてくる。手というのは、喩(たと)えではなかった。届かなかった声が、何万と落ちている場所だ。落ちたものは、上へ戻ろうとする。


2回目で、俺の踝(くるぶし)に1本。3回目で、膝の裏に3本。5回目で、数えるのをやめた。



背中の側で、ザリエルが受けていた。


歪な翼を開いたまま、風上に立って、伸びてくるものを、片端から掴んで、下へ返している。返し方が、丁寧だ。掴んで、押し戻して、指を1本ずつ外している。この男は、投げ落とさない。


「ザリエル」


「……手を止めるな」


「それ、全部落ちた奴だろ」


「そうだ」


「あんた、名前で呼んでるな」



返事が、遅れた。


8回目の波が来ていた。ザリエルが、それを両腕で抱えて、下へ沈めてから、息を吸った。その音が、咳(せき)に近い。


「……38冊、読んだ」


「勇者の名簿か」


ザリエルは、返してやった1本の指を、最後まで見送ってから続けた。


「落ちた者の名も、書いてある」


「知ってる」


「名を書いた者を、名前で呼ばないのは、卑怯(ひきょう)だ」


9回目を刺す間に、腹の底が、少しだけ緩んだ。知ってからずっと、この男を計算だけの男だと思ってきた。計算だけの男は、人の書いた名簿を38冊も読まない。


「ザリエル」


「なんだ」


「さっきの詫びは、これか」


「違う」


俺は、針を持ち替えた。


「じゃあ、何だ」


「……1つ目を、23年間違えた」



10回目で、俺の左肩が、縁に喰(く)われた。


喰われるというのは、こういうことだ。押し込まれるんじゃない。肩の輪郭が、縁の側の輪郭と、境目を無くす。痛くはない。痛くない方が、質が悪い。


「ゼノ。……肩が」


「知ってる」


「あと6回だ」


俺は、喰われた側の指を動かした。動いた。指が動くうちは、まだ腕が俺のものだ。


「あぁ」


「——6回、保つか」


「あんたが受けてる間はな」



12回目で、下からの手が、変わった。


それまでは、掴(つか)む手だった。いま伸びてきているのは、押す手だ。押されて、縫い目の内側から、何かが上がってこようとしている。それを、俺は知っている。


21年前、俺と一緒に落とされたものだ。


俺の闇とは違う。


俺の身体から先に剥がれて、先に底まで行ったものだ。名前は無い。あの頃の俺には、名前を付ける習慣が無かった。だから、21年、それは名無しのまま底にいた。


「ゼノ。何が来る」


「俺のだ」


「……あなたの?」


「先に落ちた分だ。拾いに行かなかった」



13回目を、俺は、片手で刺した。


空いた方の手を、下へ入れた。指の先に、冷たいものが当たって、絡んだ。その絡み方が、4年半前のリィナの手に似ていた。あの女も、初めて掴んだとき、離し方を知らなかった。


俺は、それを、引き上げなかった。


縫い目の内側へ、糸と一緒に巻き込んで、14回目を刺した。名無しは、抵抗しなかった。



15回目で、ザリエルの翼が、1枚落ちた。


短い方だ。折れて生え直した2枚のうち、右側が、根元から離れて、下へ消えた。この男は、それを見ずに、残った5枚で、風上を押さえ直した。


「ザリエル」


「まだだ」


「あんた、いま何枚だ」


「5枚ある」


落ちた翼の根元から、白いものが糸を引いていた。


「6枚だっただろ」


「……5枚ある」



16回目を、俺は刺した。


糸を引くと、10尺の縫い目の端と、初めて繋がった。その瞬間に、音が消えた。何万の声も、風も、翼の音も、全部消えた。静けさの中で、下の方から、1つだけ声が上がってきた。


「——ゼノ」


下だ。声が、縫い目の内側を通って、真下から上がってきた。


アステリアが、母親の腕の下で、こっちを見ていた。



俺は、糸の端を、自分の右手首に結んだ。


縫い目を綴じるためだ。綴じ終わった縁は、外側から刺した者を離さない。無理に引き剥がそうとすると、綴じが解ける。そうなったら、全部やり直しだ。


だから、俺は縁に残った。


上を見た。10尺の縫い目がある。その向こうの口の端に、3本の縄をまとめて握った女が、まだ膝をついていた。

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