第281話 1尺の間だけ
縫い終わるより先に、糸が尽きた。
リディアの右手に、もう剥ぐ皮が残っていない。3日で、掌から手首まで剥いで、端から縒って糸にして、10尺縫った。あと1針分が、足りない。女は、左手を出そうとして、俺に止められた。
「そっちの手は残せ」
「……あと1針」
「その1針は、俺がやる」
俺は、自分の右腕を見た。
皮は使えない。魔族の皮は、裂けずに焦げる。使えるのは、闇の方だ。3年前、俺は自分の闇を糸にして、人間の腹を縫ったことがある。あのときは6寸だった。今度は1尺だ。
掌を開いた。6枚。6枚のうち、5枚を糸に回した。
そこで、縁の口が鳴った。
音が、翼のものにしては揃っていない。折れて生え直した翼は、風を歪に切る。この界で、そういう翼を持つ者を、俺は1人しか知らない。
ザリエルが、縁の口に立っていた。
6枚だ。
上の2枚が短い。折れて生え直した翼は、21年前から、この男のものだった。手に、何も持っていない。男は、まず、縫い目を見た。10尺を、端から端まで、目で数えた。
「……10尺か」
「あと1尺だ」
「セレスティアは」
「交代した。あんたの娘が、下で肩を貸してる」
翼が、そこで、一度だけ持ち上がって、落ちた。
「ゼノ。私は、止めに来た」
「誰をだ」
「あなたをだ」
「遅えよ」
「……遅い」
男は、それを認めてから、縁の石の上に置かれた紙を拾った。セイルが写した17枚目だ。1行目を読んでも、顔が変わらなかった。21年、ザリエルの顔は、詫びるときしか動かない。
「セイル。これを写したのは、お前か」
「私です」
「私の命令か」
「違います」
「そうか」
俺は、その短い返事で、腹の底で分かった。ザリエルは、部下に裏切られて、それを一言で済ませる。寛大だからじゃない。21年前も同じだ。俺を落とすと決めたとき、この男は、たぶん一言も揉めなかった。
「ザリエル。あんた、いま何を止めに来たんだ?」
「最後の1針だ」
「刺さねえと、下が落ちる」
「刺すと、あなたが残る」
「それが、あんたに何の関係がある?」
男は、初めて言い淀んだ。
答えが無いわけじゃない。持っている答えを、口に出す順番を、23年考えたことがなかった。
「……アステリアが、下にいる」
「知ってる」
「あの子は、あなたが残るのを見る」
「見るな、とは言えねえぞ」
「言えない。……だから、私が刺す」
俺は、笑った。
ザリエルが、21年かけて同じ場所に戻ってきた。21年前、この男は、誰かを1人落として、みんなを助けた。今日も同じことを言っている。落とす相手が、自分に替わっただけだ。
「ザリエル」
「なんだ」
「あんた、それをやると、また誰も困らねえ計算になるな」
男の肩が、止まった。
「……何が言いたい」
「あんたが残ると、あんたの娘が、また23年上を見る」
「見ない。あの子は——」
「見るんだよ。あんたの女房を、23年見てた娘だ」
「……」
「順番が、あんたの家だけ1つずれてんだ。母親が入って、娘が肩を貸して、今度は父親が刺す。あんたら、誰も同じ場所に立ったことがねえ」
俺は、糸を巻いた5枚を、右の指に絡めて、縁の口へ足を掛けた。足の下で、床が鳴らなかった。ここから先は、もう床ではなく、綴じの内側だ。
「ゼノ」
「あぁ」
「……あなたに、詫びたいことが、もう1つある」
俺は、縁の口から足を下ろさなかった。
「順番が悪い。いま言うと、俺が刺しにくくなる」
「では、あとで言う」
「あとで、俺がどこにいると思ってんだ」
男は、それに答えずに、俺の背中側へ回って、縁の外側に、自分の足を掛けた。短い方の翼を、2枚とも開いた。折れて生え直した翼は、開くと形が歪だ。歪な翼で、ザリエルは、風上に立った。
「ゼノ。刺すのは、あなたでいい」
「あぁ」
「刺している間、下から来るものを、私が受ける」
「——受けきれるか?」
「受けきれない。……1尺の間だけ、保たせる」
俺は、それ以上、何も言わずに、針を持った。




