第280話 少しの間だけ、髪を結ってください
母は、わたしの背丈より、少し低い人でした。
覚えていた背丈と、違います。23年前、わたしを見下ろしていた人の顔が、いま、縁の内側で、わたしの肩のあたりにあります。縮んだのではありません。膝が、23年、曲がったままだったのです。
髪は、まだ長いままでした。
歯の細かい櫛が要る髪です。その髪が、根元から3寸ほど、色が抜けています。そこが、支えた分でした。両手を、頭の上へ伸ばしています。その腕の内側だけ、筋が太くなっていました。
「……アス」
わたしは、返事をしませんでした。
意地を張ったのです。
21年、わたしは9番目の棚におりました。棚の中で、一度も名を呼ばれませんでした。呼ばれなかった名を、いちばん最初に呼んだ人が、23年前にわたしを置いていった人でした。
「アス。……縫いに来たの」
「はい」
「帰りなさい」
「帰りません」
「あなたの分の針は、ここにはありません」
母は、そう言って、腕を伸ばしたまま、わたしを見ませんでした。
こちらを向くと、腕が下がるのです。23年、この人は、上を見続けています。上には、天井がありません。あるのは、裂けた口の内側だけです。
わたしは、懐から櫛を出しました。
「これを、返しに来ました」
「……この前は、出さなかったのね」
「出せませんでした」
「そう」
「23年前に、置いていかれました」
母の腕が、そこで、1寸下がりました。
下がった分だけ、上の裂け目が広がりました。
音は、しません。かわりに、空気が冷たくなりました。その中を、下から何かが伸びてきて、母の足首に触れて、離れました。
「アス。いま、下がったでしょう」
「はい」
「あなたのせいです」
「……そうでしょうね」
「23年で、初めてです」
わたしは、腹が立ちました。
この人は、わたしのせいにしました。腕が下がったのは、わたしが櫛を出したからです。出させたのは、この人が23年前に置いていったからです。順番を、遡ってもらいたいと思いました。
「お母様」
「なに」
母の指が、一度だけ曲がりました。上で何かを掴み直す形です。そのたびに、腕の付け根が鳴ります。
「置いていくときに、なぜ、櫛だったのですか?」
「……髪が、伸びるからです」
「わたしの髪は、肩までです」
「伸びます。……あなた、まだ6つでした」
わたしは、櫛を握りました。歯が、掌に食い込みました。21年、痛みを数えていなかった手です。数えるようになってから、6日です。
「わたしは、29になりました」
「知っています」
「髪は、伸びませんでした」
「……そう」
「切っていたからです。母のいない娘は、髪を長くすると、誰かに結ってもらうことになります」
母の腕が、また1寸、下がりました。
今度は、わたしのせいではありませんでした。この人が、初めてこちらを見たのです。その顔に、23年前の形がありました。目の下の窪みだけが、別の人のものでした。
「アス。……手を、出しなさい」
「いやです」
「出しなさい」
「出したら、代わりなさいと言うでしょう」
「言います」
母は、そこで、はっきり言いました。
「わたくしは、代わってほしいと思っています。23年、一度も思わなかった日はありません」
わたしは、息が止まりました。
この人は、隠しませんでした。父は隠しました。カイエルは背筋を伸ばしました。
「……お母様」
「でも、あなたではありません」
「なぜですか」
「あなたの魂は、魔級ではないからです」
わたしは、縁の外を振り返りました。
外の縁に、闇が1つ、回り込んでいます。ゼノ様が、こちらを見ずに、裂け目の縫い目の先を、目で測っています。10尺です。あと1針で、届きます。
「お母様。あの方が、最後の1針を刺します」
「知っています」
「刺した方は、縁に残ります」
「……聞きました」
「では、なぜ、止めないのですか?」
母は、腕を上げたまま、答えました。
「止めるのは、支えている者の役目ではありません。……上で、呼んでいる人がいるのでしょう」
わたしは、櫛を、母の髪に挿しました。
返すつもりでした。返してしまえば、わたしの手が空きます。その両手を、母の腕の下へ入れて、肘を押し上げました。腕が、わたしの肩に、23年分の重さで乗りました。
重いです。
この重さを23年担いで、母は泣きませんでした。泣いたのは、わたしの方でした。
「アス。……これは、代わりではありません」
「存じております」
「ほんの、少しの間です」
「はい。……少しの間だけ、髪を結ってください」




