第279話 18年ぶりに動いた線
38本目の柱の線が、21年ぶりに動いた。
床から3尺、私が彫れなくなった場所だ。切れ目が、下から順に詰まっていく。線が伸びているのとは違う。両端が、互いの方へ寄っている。下の7本が、寄せている。
7本のうち、5本が傾いたのが、線の寄り方で分かる。
私は、机の上の17枚目を押さえた。
紙が動いた。紙は動かないものだ。21年、この部屋で紙が勝手に動いたことはない。部屋の外の何かが、置き場を失ったということだ。
そういう物は、置き場のあった場所へ戻る。この界の作法だ。
作法が働くには、上と下が綴じられていなければならない。綴じが緩めば、物は戻らない。行き場のない物が、部屋の中で、少しずつ滑り始めている。
「セイル」
入口に、カイエルが立っていた。
袖を襷で上げている。この女が襷を掛けているのを、私は見たことがない。手に持っているのは、布ではなかった。縄だ。太さが親指ほどあり、縒りが荒い。天界の織りではない。
「その縄は」
「下のものです」
「どこで手に入れた」
「1尺の穴から、少年が寄こしました」
私は、その少年の名を知っている。
テオという。17で、両手に2種類の胼胝がある。昨日、3枚の紙を3か所へ入れて、3枚目で指が痙攣して、そのまま組み切った。ああいう手をした者を、この界では見たことがない。
「カイエル。あなたは、片付けに来た側だ」
「片付けにまいりました」
「その縄で、何を片付ける」
「縄が3本では、足りないと思われます」
私は、筆を置いた。
筆は、溝に収まらずに転がって、机の端で止まった。21年、この筆が溝を外れたことはない。机が傾いている。
この部屋は、ザリエル様が私に与えたものだ。その部屋が、いま傾いている。
「カイエル。私は、あの術を組んだ」
「存じております」
「21年前、あの男を落としたのは私の線だ」
「存じております」
「それでも、縄を持ってきたのか?」
女は、縄を床に置いて、袖の中に手を入れた。出てきたのは、裂けた布の、残りの半分だ。端が繕ってあって、ひと針ごとに違う方向を向いている。急いでいない者が、何度もほどいてやり直した跡だ。
「セイル。私は、教育係です」
「知っている」
「21年、お帰りにならない方のお部屋を、毎朝整えてまいりました」
「聞いた」
「整えるというのは、戻る場所を1つ残しておくことです」
私は、それに返せなかった。
17枚目と18枚目を丸めて、縄と一緒に抱えて、部屋の外へ出た。回廊は、影が落ちない。そのはずの床に、いま、薄い影が出ていた。
縁の口に、リィナが座っていた。
3本の縄を掌にまとめて、膝をついている。膝の下の床が、濡れていた。汗ではなかった。掌の皮が剥けて、出たものだ。
私は、その横に、新しい縄を置いた。
「これを、足せ」
「……セイルさん」
娘は、私の顔を見上げてから、縄を受け取って、すぐに自分の掌へ巻き始めた。
礼も、恨み言も言わなかった。
「セイルさん。この縄、どこのですか?」
「下のものだ。少年が寄こした」
「テオさんですね。……この縒り方、麦の村のです」
「分かるのか?」
「はい。井戸の縄と、同じ縒りです」
私は、縁の口を覗き込んだ。
縫い目が伸びている。9尺で止まっていたものが、いま10尺に届こうとしていた。その先に、最後の1針がある。
その手前で、闇が1つ、縁の外側に回っていた。
あの闇は、減らない。私の術は、減らないものを1つ、21年前にこの界の下へ落とした。それが、いま、縁の外側から戻ってこようとしている。
私は、17枚目を広げて、縁の石の上に置いた。
「ゼノ。……18枚目まで写した。順番は、紙の裏の隅に書いてある」




